の方だって偶《たま》の休みで、せっかく岡たちとも約束してあるのだから、事情を云って断ったのだ、ほかに仕様がなかったからね。それを今日まで根に持っているのだ。――
利口なようでも女は女だね!
やす子 それだけのこと!(疑しそう)
良 三 勿論じゃあないか!(力瘤を入れる)その時こう云ったのだ。僕も今日は偶の休みで、釣に行くところで駄目ですから、明日病院の方へ連れていらっしゃいってね。そうしたら、怒ったような声で、戸外《そと》が寒いのに風には当てられません、またいずれそのうちに致しますって云っていたっけが……一体、何さ、子供をなくした女親なんていうものは、誰の顔を見ても食ってかかりたいものだろうさ、泣きたいならいくら泣いても構わないが、見当違いの説法だけは聞かされたくないものだね……ああ、ああ(坐ったまま擬勢的な空|欠伸《あくび》をする)詰らない商売を始めたもんだ!
やす子 (良三の様子を苦々しげに見る)貴方。よくそんな平気な風をしていらっしゃれるのね、お気の毒じゃあありませんか。一寸電話ででもお悔みを云っておあげ遊ばせよ。あんなに子供を命にしていらっしゃる方が……可哀そうだわ。――何番?(立とうとする)
良 三 おい、止せ止せ。下らない!
やす子 (中腰のまま)まあ。何故? そうすべきものではありませんの? 貴方。
良 三 僕はいやだよ。妙に人道主義者振るのはよしてくれ。詰らない。――
第一考えて御覧な、(だんだん熱中する)医者だって、人間だよ。人間なら、偶には職務以外の楽しみだって持ちたく思うのは当然だろうじゃあないか。
世の中に、病人ほど、或は病人の近親ほど利己主義な者はありゃあしない。雨が降ろうが槍が降ろうが、こっちで一声、病気だと云いさえすれば、忽ち馳せ参じて全力を傾倒するものだと、てんから定めてかかっているのだ。柳田の奥さんが癪にさわったのも、つまり自負心を傷けられたからなのさ。若し実際それほど僕の「霊腕」に接したければ、翌日でもまた改めて迎えに寄来したらいいじゃあないか、自分の方でするだけのことを尽して置きもしないで、死なれると逆捩《さかねじ》を喰わせて、大いに良心に咎めさせようとするなんか、随分傲慢きわまった話だ。ただ死んだという報告だけなら、こちらだって人間らしい気持で純粋に同情もしてやれるが、こんな、思い知ったか、と云うような文句を投げつけられて、僕には、その上の御機嫌伺迄出来ないよ、そういうのは、馬鹿正直というんだ。
やす子 それは奥さんのなさりかたも感情的ね。――でも……何だか気が済まないようじゃあありませんの? さっぱりしませんわ、電話をかけましょうよ。
良 三 ――少しは胆にこたえたか、と云って奥さんは、いよいよ壮重な涙を「幾百の幼児のために」こぼすだろう。
やす子 随分意地ずくね(目に止まらぬ寂しき笑)……無理にかけようとは申しませんことよ。
良 三 (黙々として楊子を使いながら、夕刊を見はじめる。いくら辛辣な言葉を吐いても、気分のうっとうしさは散じきらないという様子)
やす子 せっかくの御飯が台なしになりましたわね、いけなかったこと。(努めて良三の気を引立たせようとする本能的な心づかい。ちょいちょい彼の方を見ながら、食卓を片づけ始める。)
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遠くで、子供の泣声がする。だんだんそれが近づくにつれてやす子の注意がその方に集注される。
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やす子 (手塩《てしお》を親指と央指《なかゆび》とで抓《つま》みあげたまま、耳を立てる)つやちゃんだわ……どうしたんだろう今頃……(振返って、茶箪笥の上の時計を見る)
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泣声はだんだん近より、八つ手の植込みのかげの部屋で、
「さあ、よい子よい子、つや子ちゃま、なきなきおやめあちょばせよ」
と子守が節をつけてあやしているのが聞える。
子供は泣き止まない。
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やす子 (独白)困るわね、泣くと連れて来るんですもの。
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やす子、子守に負けるものかというように食器を盆にのせたり、水|焜炉《こんろ》の火を長火鉢に移したりする。
がとうとう気になって堪らなくなった声で子守を呼ぶ。
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やす子 たみ、こちらへ連れておいで。
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待ちかねていたように、「はい」と返事が聞える。上手の縁側から、たみ、白い前掛に、染絣《そめがすり》の着物、赤まじりの帯で、つや子を抱いて来る。
つや子は、可愛らしい友禅の袖なし、大きな犬張子の縫をしたエプロンをかけた、色白の肥った愛らしい子、右の手で耳の辺を払うようにしては啜りあげている。母の顔を涙の裡から見て、小さい手を延す。
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やす子 はい、はい、つやちゃんや、どうしたの、え?(可愛
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