えて来る。
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良三の声 あ、番町の三千九百五十六番……ああ、もしもし横田さんですか? 先生は御在宅ですか? そう、僕は中西ですが、一寸電話口まで出て頂けるでしょうか……ええ、――どうぞ。
やす子 (僅にほっとしたらしく囁く)いらっしゃるらしいね。
た み さようでございますね。(共にきき耳を立てる)
良三の声 やあ横田君か? せっかくお休の処を偉い邪魔をしたね。――いや、どう致して。……そうだろうとも。
実はね、突然だが、うちの赤坊が、先刻から妙に泣き立てると思ったら、どうかして耳に少々出血しているのさ。何?――ああ、見たがね、駄目だよ、別に脈搏に異状もないから大したことじゃあなかろうと思うんだが、何しろ、当人より阿母さんの心配の方が激しい有様だから気の毒でも、一つ来て貰えないだろうか。若し都合して貰えれば、直ぐ車をやるが。
やす子 (確かりつや子を抱きながら、一層注意を傾ける)
良三の声 フム、フム、そうかい――それは困ったな。
やす子 (思わず、はっとする、つや子を抱いたまま立上る。)
良三の声 いいや、決してそんなことはない。仕方がないさ。そうそうはお互に務まりかねるからねハハハ(強いて快活な笑声)――じゃあそうしてくれ給え、三谷にでも訊いて見よう、ウム有難う、じゃあ失敬、忙しい処を迷惑だったね……失敬。
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ベルの音。
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やす子 (まだ姿の現れない良三の方に顔を向けて、言葉をかける。非常に焦立った不安な声)どうでして? 駄目?
良 三 駄目だとさ(云いながら出て来る)謡の会があって自分が主宰者だからどうしても今夜は抜けられないと云うんだ。(わざとやす子を見ず、つや子を覗き込む)どうだね?
やす子 まあ! 謡ですって? 呑気ね、(やす子失望と不安で我知らず自制を失う)抜けられないって、一晩中掛るのじゃあ、あるまいし。あの方の謡なんかより、つや子の命の方が、よっぽど大切ですことよ。(良三を鋭く見る)うんそうかって引込んでいらっしゃる貴方も貴方ね。
良 三 おい、おい(たしなめる)「奥さん」になるなよ。そう無茶を云ったって仕様がないじゃあないか。(二重の意味ある声)あの男だって、偶の楽しみであって見ればフイにされたくもなかろうさ。(心に湧く感情を、強いて紛らすように、髭の辺を撫で、部屋を歩き廻り始める)
やす子 (忽ち、或ることを直覚する。鋭い表情で良三を見詰める)弁解?
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やす子の顔には、歴然と不愉快、嫌厭の表情が現れる。唇をかみしめながら、無言で計温器を出し、灯にすかして見る。殆ど叱責するような語調。
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やす子 貴方! 八度一分よ。(緊張した沈黙、じっと喰い入るように落付かない良三を睨まえていたやす子は、怒った牝獅子のように憤然として)貴方!(唇が震える。それをぐっと堪《こら》え)私は、貴方の意地で、子供を殺してはいられませんよ。
良 三 (打たれたように、やす子を見る。つや子を見る。益々落付きなく部屋を歩き廻り、立止り、何か云おうとする。が、止め、遽《あわただ》しく部屋を出、廊下に消える。)
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やがてベルの音。
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良三の声 (沈んで重々しく)小石川の九百五十二番。
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やす子、思わず深い深い溜息をつき、つや子を見、涙をほろほろとこぼす。彼女は立ったまま、たみ、膝をついて中腰になったまま等しく眼を据えて、電話の方に耳を欹《そばだ》てる。――
非常に、静に、幕。[地より11字上げ]
底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
1979(昭和54)年6月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月8日公開
2003年6月29日修正
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