から生れ出て来た大衆を信頼しないし、このんでいなかった。何をするにも金、金。その金銭の害悪は、金銭の乏しい彼に金をつかわないで楽しく暮せる生活法の発見――イギリスの社会改良家の伝統的な幻想である素朴な自給自足生活へのあこがれ――をうけつがせた。ローレンスは、生活の現実におそいかかって来る果しない矛盾、恐怖、解決の見出されない不安を、感覚の世界へ没入することでいやされ、人生との和睦を見出したのだった。その感覚的生存感の核心を性に見出したのだった。
ローレンスの勇気にかかわらず、その勇気の本質は神経的であり、感覚の反乱であったことが、否定しがたく明瞭になって来る。こんにち、わたしたちが、かりに一人の未亡人の生活の上に、とざされた性の課題を見出すとき、それは社会的な複雑な条件に包囲されているばかりに、とざされた性としておかれていなければならないことを見ないものがあるだろうか。女性と子供とが、その社会で、どのように生きることができているか、その現実こそ、その社会の発展の程度を語る、という普遍的な真実も、性に作用する社会条件の重大さの認識に立っている。ヒューマニティーのより自然で、より美しい流露を願うならば、D・H・ローレンスの行ったたたかいは、局部的であったし、人間社会の現実問題としての性の課題の根本にまで触れない。現代文学が主題とするヒューマニズム探求の一環として見た場合、D・H・ローレンスの文学は、こんにちの現実を解明するためにローレンス氏方式ではすでに不十分であることを、明かにして来ているのである。
敗戦後の日本に、肉体派とよばれる一連の文学があらわれた。過去の日本の封建性、軍国主義は、日本のヒューマニティーを封鎖し、破壊し、生命そのものをさえ、その人のものとさせなかった。ヒューマニティーの奪還、生命に蒙った脅迫への復讐として、あらゆる破滅の瞬間にも自身のものとして確認された肉体によって、現実にうちあたって行こうとする主張に立った。しかし、日本の不幸が男女のどんなからみ合いの過程から、うち破られてゆくだろう。まんじ巴[#「まんじ巴」に傍点]と男女の性がいりみだれ、どんな姿態が展開されたにしても、大局からみれば、文学に渦まくそのまんじ巴[#「まんじ巴」に傍点]そのものが、日本の悲劇と無方向を語るものでしかない。D・H・ローレンスの作品のあるものは、一九三〇年代のはじめごろ、日本に翻訳された。三岸節子の装幀で、瀟洒な白と金の地に、黒い縞馬の描かれた本も見た。当時、それは、文学作品としてよまれたのだった。
時をへだてて、ふたたびローレンスの作品集が出版されはじめた。そして、刑事問題をおこしている。取締りにあたる人々が、問題となっている作品を全部よまないで、好奇的に語られている部分だけよんで、告訴しているといわれている。それが事実ならば取りしまる[#「取りしまる」に傍点]立場の人々、自身の卑猥さがそのことにあらわれている。問題がおこってから俄にローレンスの作品の社会的、文学的意味をジャーナリズムの上に語りはじめた同じ人たちが、出版のはじめから、「チャタレイ夫人の恋人」のバンドに刷られたアンケートが果して文学の問題であるかどうか考えることは出来なかったろうか。問題をもっている一つの文学作品を紹介するには、そのはじめに(さわぎのあとからでなく)客観的な、提灯もちでない解説があっていいのではなかろうか。ローレンスの作品の問題につれて、わたしたちに感じられているのは、ローレンスそのひとの文学のきたなさ[#「きたなさ」に傍点]ではない。社会的に未熟であり、きょうからみれば、ヒューマニティーそのもののバランスを失っているところのある、ローレンスの作品を扱うにあたって露出された、戦後日本らしいよごれ[#「よごれ」に傍点]のあれこれについて考えさせられているのである。
現実のその苦しさから、意識を飛躍させようとして、たとえばある作家の作品に描かれているように、バリ島で行われている原始的な性の祭典の思い出や南方の夜のなかに浮きあがっている性器崇拝の彫刻におおわれた寺院の建物の追想にのがれても、結局、そこには、主人公の人間としての苦悩を解決するものはない。その小説の主人公の若く美しい妻は、自主的に解放されているというよりも、夫となっている主人公に、はじめ、冷たく蹂躪させた露通《るつう》な性を、物にかえている。夫の苦痛はそこからはじまっている。未開なバリ島の性の祭典には、けがされない性の陶酔があり、主人公のところに東京のひきさかれた生存の頽廃があるというコントラストだけがとらえられても、従属させられている男女の社会生活におけるヒューマニティーの課題はこたえられきれない。
こんにち純潔についていうならば、それは涙と血と泥によごれた女のこぶしで散々にうちたたかれ、くやしい足でけられ、しかし遂にその上に数万人の女が泣きふした、その人間としての純潔について以外にはない。はじめから純潔は、天使的《エンジェリック》なものなんかではなかったのだ。男に対する女の性の純潔などという局限されたものでもなかった。マグダラのマリアの物語がこのことを示している。マグダラのマリアは、迫害されながら、迫害するものの欲望のみたして[#「みたして」に傍点]として生きる売笑婦であった。ローマの権力に対して譲歩しない批判者であった大工の息子のイエスは、彼の意見に同感し、行動をともにするようになった漁夫のペテロそのほかの素朴な人たちとともに、苦しみのなかに生きている一人の者として、マリアを正統な人間関係の中へおくようにした。教会流にマリアが「悔いあらため」、消極的、否定的に「きよきもの」となっていただけなら、どうして彼女が、第一に、甦ったイエスを見たという愛の幻想にとらわれたろう。彼女は、どういう苦悩を予感して、イエスの埃にまみれて痛い足を、あたためた香油にひたして洗い、その足を自分のゆたかに柔かな髪の毛で拭く、という限りなく思いやりにみたされた動作をしたろう。マグダラのマリアの物語の人間らしい美しさは、イエスと彼女との間に、世俗の男女のいきさつがなかったという、いわゆる「キリスト教的」な純潔さにあるのではない。男女のぬかるみにつっこまれて生きて来たマリアが、人間と人間との間にあり得る愛というものを知って、その信頼から湧く歓喜の深みへ、わが心と身とをなげ入れて生きるようになった、その純一さが、彼女についての物語に、いつも新鮮な感動を、おぼえさせるのである。伝説に語られている環境のなかで、青年イエスの心情を、最もリアルに理解することのできたものの一人は、社会の下づみで、現実にさらされて来たマリアであったのは当然だった。イエスとマリアとの間には、花の香とそのかおりを吹きおくるそよ風のように微妙な心のかよいがあったにしろ、マリアを純一にし、まじりけなく行動させたのは窮極において、彼女が人間の関係のうちに見出したまともなものへの献身であった。
正義、良心、恥を知る心などというものは何と現代に愚弄されているだろう。それだのに、なお、わたしたちには、しつこく、正しさを愛し、人間らしさを求めずにいられない心がのこされている。それは、なぜなのだろう。すこしはげしい表現をもっていえば、穢辱そのものに苦しむよりも、穢辱に苦しむ人間性のゆえに苦しんでいるのである。そこに人間がある。苦しむ人間性をまっとうに評価するひとと自分への責任がある。「風にそよぐ葦」に児玉榕子という女性が登場して来る。小説の中の人物は小説中の人物だという考えは、日本のジャーナリズムの奇妙な流行によって変化させられた。小説の中では児玉榕子という名をもって存在している一人の女性の人生態度についての架空会見記(十月号女性改造)を偶然よんだ。
「風にそよぐ葦」は甚だひろくよまれている。戦争に反対し、軍国主義の非人間的だった時期の日本の悲劇を描くとされているのであるけれども、榕子という女性を描いている作者のその意図について疑いをもたされる人は少くないだろうと思う。わたくしとはいわず、あたくしと、はやりどおりにいうこの女性は、どうしてこんなに賢こげな言葉をつらねてすべてまともであるべき問題を、はぐらかし、銀色に光っているとすれば、それは不潔のうちに棲息するなめくじの這い跡のようでなくてはならないのだろう。
榕子として書かれているその女性の話しは、まるでそっくりそのまま「結婚の生態」における作者の日本の女性・結婚・家庭観である。「人が生きるのは思想によってじゃなくってよ」「思想が、あたくしに何をしてくれたでしょう。あたくしは思想なんて形のないものは、きらい」「あたくしはむずかしい言葉はよく知っているけれども、自分で考えることは出来ません」「葦沢の父のうけうりで、いろいろなことを考えたりしていただけで、あの家をはなれてからそんなことについて考えてゆく興味もないの」「あたくしたち、日本の女として育ってきましたから、流されてゆくことをたのしむということのほかに人生のたのしみを見つけることはできないのですもの」
これらの言葉は、つめたい毒のようにわたしたちの手足をこおらせる。
同じ作者が書いた「生きている兵隊」という小説は、戦場の野蛮さと非人間さが、現代の理性とヒューマニティーを片はじから喰いころしてゆく、暴力の血なまぐさい高笑いを描いた作品であった。榕子の言葉は、こんにち、こんどは美貌の女の唇をとおして日本の中で、語られる極めてインヒューマンな発言である。自分の夫を、なぐったり蹴ったりして殺した下士官広瀬に復讐を思い立つが、「目の前で見ていると、それは男らしくて美しい顔だちの人で」その男の求愛をしりぞけたのは、思想のためでもその男に死なされた夫への愛のためでもなかった。「あたくし、ぜいたくに生れついているのよ。それも広瀬が金の力でゆるしてくれるような出来合いのぜいたくじゃなくって、みんなの人がこれがいいって言ってくれるような上品なぜいたくでなければ、いやなの」それが理由だった。「それに広瀬だって、泰介と同じような人間じゃないの」「条件がわるかったのよ」「日本人の何人が軍国主義者でなかったでしょう。今そうではなくなっていれば、もうそれでいいじゃないの」
榕子の女としての考えかたに、そっくり「結婚の生態」のテーマを辿ることができる。「生きている兵隊」の血にそんだ高笑いを、彼女の思想の否定――理性排除の思想に思いおこす。この美しいひとが、「同じ言葉を同じ形で何度もくりかえせる精神というものは、それが強い精神なのよ」といっていることにも特別な関心をひかれる。
「一度の状況に対してただ一度の言葉を考えようとするなんて、それはインテリの身だしなみなんで、それは弱いものの負けおしみにしか過ぎません」下士官広瀬は、榕子によって強い精神[#「強い精神」に傍点]とされる精神の所有者であり、現実における辻政信その他の人々も、石川達三という作家によってうまれている彼女の流儀によれば、やはり強い精神をもって、日本のこんにちに暗く作用しつつある。「結婚の生態」「生きている兵隊」を通して「風にそよぐ葦」にいたってそれらのテーマの反覆統一として榕子を描いている作者の精神も、その角度からならば、強い芸術の精神[#「強い芸術の精神」に傍点]といわれるのであろうか。もしこの架空会見記をどこかに一人の女性として生活しているモデルと仮想されている人が読んだならば、彼女は描かれた女主人公榕子の人間性の粗末さと発展の可能性の失われている性格について抗議のしようもないひそかな憤りを感じているのではないだろうか。
こんにちわたしたちが生きているために、食うこと、住むことの問題に基礎をおいて理性に負うている苦しみ、人間心情にうけている痛みは、多種多様であり、どんなファウスト博士の試験管の中にも、「純潔人間」は存在しない。わたしたちにわかっているただ一つのものは、わたしたちは、「人間らしく」あろうと努力して、戦争そのほかあらゆる「人間らしくないもの」とたたかいつつ生きつつあると
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