露を願うならば、D・H・ローレンスの行ったたたかいは、局部的であったし、人間社会の現実問題としての性の課題の根本にまで触れない。現代文学が主題とするヒューマニズム探求の一環として見た場合、D・H・ローレンスの文学は、こんにちの現実を解明するためにローレンス氏方式ではすでに不十分であることを、明かにして来ているのである。
 敗戦後の日本に、肉体派とよばれる一連の文学があらわれた。過去の日本の封建性、軍国主義は、日本のヒューマニティーを封鎖し、破壊し、生命そのものをさえ、その人のものとさせなかった。ヒューマニティーの奪還、生命に蒙った脅迫への復讐として、あらゆる破滅の瞬間にも自身のものとして確認された肉体によって、現実にうちあたって行こうとする主張に立った。しかし、日本の不幸が男女のどんなからみ合いの過程から、うち破られてゆくだろう。まんじ巴[#「まんじ巴」に傍点]と男女の性がいりみだれ、どんな姿態が展開されたにしても、大局からみれば、文学に渦まくそのまんじ巴[#「まんじ巴」に傍点]そのものが、日本の悲劇と無方向を語るものでしかない。D・H・ローレンスの作品のあるものは、一九三〇年代のはじ
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