は私たちに何を教えるだろう。それぞれの人の為人《ひととなり》の高低がそこに語られているばかりでなく、婦人そのものの社会的自覚が、その頂点でさえもなお遙かに社会的には狭小な低い視野に止っていた日本の女の歴史の悲しい不具な黎明の姿を、そこに見るのである。
 景山英子は、その生涯の間には、婦人の社会的向上の問題の理解を次第に深めて、明治四十年代「青鞜」が発刊された頃には婦人の社会的な問題の土台に生産の諸関係を見、婦人の間に社会層の分裂が生じる必然の推移までを見て、平塚雷鳥が主観の枠内で女性の精神的自己解放をとなえていた到達点を凌駕した。彼女は明治三十四年に女子の工芸学校を創立したりして、婦人の向上の社会的足場を技術の面から高めて行こうとする努力をも試みたのであったが、その業績は顕著ならずして、時代の波濤の間に没している。
 明治二十年以後の反動期に入ると、近代国家として日本の社会の一定の方向が確定したとともに、婦人に求めてゆく向上の社会的方向もほぼ固定しはじめた。当時日進月歩であった新日本の足どりにおくれて手足まといとならない範囲に開化して、しかも過去の自由民権時代の女流のように男女平等論などを論ぜず内助の功をあげることを終生のよろこびとする、そのような女を、明治の日本は理想の娘、妻、母として描き出したのであった。三十二年の高等女学校令は、四十二年後の今日に迄つづいていて、その精神は、古くもないが決して新しすぎもしない若い女の産出をめざしているのである。
 六十六歳の福沢諭吉が、日清戦争の勝利の後の日本が、一応進歩的傾向での安定を見出したこの三十二年に「新女大学」を発表したということは、なかなか複雑な社会史的ニュアンスがこもっていると思う。
 大体福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んで、それに疑義を抱き、手控えをこしらえはじめたのは彼の二十五歳の年、大阪から江戸へ出た時代の事である。「学問のすすめ」は明治五年にあらわれて、日本の黎明に大きい光明を投げたのに、「女大学評論」と「新女大学」とは「幾十年の昔になりたる」その腹稿をやっと三十二年になって公表の時機を見出したということには、それ迄の日本が岸田その他の婦人政客を例外的に生みながらも、全体としては「真面目に女大学論など唱えても」耳を傾ける人のすくない状態におかれていたからにほかならない。
 婦人の独自な条件に立って体育、知育、徳育の均斉した発達の必要と、家庭生活における夫婦の「自ら屈す可からず、また他を屈伏せしむべからざる」人性の天然に従った両性関係の確立、再婚の自由、娘の結婚にあたって財産贈与などによる婦人の経済的自立性の保護などについて説いている諭吉の「新女大学」は、今日にあっても私たちを爽快にさせる明治の強壮な常識に貫かれている。
 若い女性たちが数百の小説本はよみながら、一冊の生理書を読んだこともないひとの多いことをなげき「学問の教育に至りては女子も男子と相異あることなし」ということを原則として示している。けれども、日本の社会の実際は、女の向上を等閑にして数百年を経て来ているのだから、男と同等の程度に女の学問がおよぶためには相当の年月がいるであろうと見ている。
「文明普通の常識」程度として、「ことに我輩が日本女子に限りて是非ともその知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と此の二者にあり」とする諭吉の言説は、とくに注目されなければならない重要な点だと思う。婦人に経済法律とは異様にきこえるかもしれないが、その思想が皆無であるということこそ社会生活で女が無力である原因中の一大原因である。女には是非この知識がいる。「形容すれば文明女子の懐剣と云うも可なり」そして、この新興日本にふさわしい大啓蒙学者は青年のような英気をもって、「夫れ女子は男子に等しく生れて」という冒頭の一句から全篇二十三ヵ条にわたって真に心と肉体の健やかで人間らしい娘、妻、母を生むために必須な社会向上の要点を力説しているのである。
 中島湘煙が、いいといった昔風な家庭の土台をなす益軒流の観念に対して、諭吉は歯に衣をきせず「女子が此の教に従って萎縮すればするほど男子のために便利なるゆえ、男子の方が却って女大学を唱え以て自身の我儘を恣にするもの多し(中略)女子たるものは決して油断すべからず」と警告しているのである。
 四十余年前に現れているこの「新女大学」の内容の何分の一が、今日の日本に実現されているのであろうか。
 たとえば女子の教育について、まだすべての高等専門学校、大学が女子の入学を許すところ迄行っていない。大正十年ごろ、美術学校や早大慶大が女子本科生入学許可の方針をきめたが、それは却下された。早大が昨年やっと正科に女生徒を入れるようになった。
 日本の女子にとっては、一層必要とされている経済や法律思想は
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