、徳育の均斉した発達の必要と、家庭生活における夫婦の「自ら屈す可からず、また他を屈伏せしむべからざる」人性の天然に従った両性関係の確立、再婚の自由、娘の結婚にあたって財産贈与などによる婦人の経済的自立性の保護などについて説いている諭吉の「新女大学」は、今日にあっても私たちを爽快にさせる明治の強壮な常識に貫かれている。
若い女性たちが数百の小説本はよみながら、一冊の生理書を読んだこともないひとの多いことをなげき「学問の教育に至りては女子も男子と相異あることなし」ということを原則として示している。けれども、日本の社会の実際は、女の向上を等閑にして数百年を経て来ているのだから、男と同等の程度に女の学問がおよぶためには相当の年月がいるであろうと見ている。
「文明普通の常識」程度として、「ことに我輩が日本女子に限りて是非ともその知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と此の二者にあり」とする諭吉の言説は、とくに注目されなければならない重要な点だと思う。婦人に経済法律とは異様にきこえるかもしれないが、その思想が皆無であるということこそ社会生活で女が無力である原因中の一大原因である。女には是非この知識がいる。「形容すれば文明女子の懐剣と云うも可なり」そして、この新興日本にふさわしい大啓蒙学者は青年のような英気をもって、「夫れ女子は男子に等しく生れて」という冒頭の一句から全篇二十三ヵ条にわたって真に心と肉体の健やかで人間らしい娘、妻、母を生むために必須な社会向上の要点を力説しているのである。
中島湘煙が、いいといった昔風な家庭の土台をなす益軒流の観念に対して、諭吉は歯に衣をきせず「女子が此の教に従って萎縮すればするほど男子のために便利なるゆえ、男子の方が却って女大学を唱え以て自身の我儘を恣にするもの多し(中略)女子たるものは決して油断すべからず」と警告しているのである。
四十余年前に現れているこの「新女大学」の内容の何分の一が、今日の日本に実現されているのであろうか。
たとえば女子の教育について、まだすべての高等専門学校、大学が女子の入学を許すところ迄行っていない。大正十年ごろ、美術学校や早大慶大が女子本科生入学許可の方針をきめたが、それは却下された。早大が昨年やっと正科に女生徒を入れるようになった。
日本の女子にとっては、一層必要とされている経済や法律思想は
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