その娘たちの周囲においた。装飾と防衛をかねて。その女主人を飾り、優秀な宮女の名声によってその女主人の地位をも高くたもつために紫式部にしろ、清少納言にしろ、傭われていた。そしてまた、更級日記をみてもわかるとおり権門に生れず、めいめいの才智でよい結婚も見出してゆかなければならなかった中流女性にとって、宮仕えは一つの生きる道でもあった。源氏物語の「雨夜のしなさだめ」は、婦人の一生をみる点で紫式部がリアリストであったということを証明している。当時の貴族社会の男の典型として紫式部は光君を書こうとした。今日からみれば、とりとめない放縦な感情生活のなかにも、なお失われない人間性というものがありたいということを彼女は主張した。
当時は風流と云い、あわれにやさしい趣と云って、恋愛も結婚も流れのうつるような形で、婦人は隷属せず行われたようでも現実には矢張り男の好きこのみで愛され、また捨てられ、和泉式部のような恋愛生活の積極的な行動力をもつ女性でも、つまるところは受けみの情熱におわっている。紫式部のえらさは、文学者として美しいつよい描写で光君を中心にいくつかの恋愛を描きながら、一貫して人のきずなのまこと、まごころというものを主張しているところだと思う。「末つむ花」のような当時の文学のしきたりから見れば破格の面白さも、その点からこそ描いた源氏物語には女のはかなさというものへの抵抗が現われている。紫式部は決して、優にやさし、というふぜいの中に陶酔していなかった。
藤原時代の栄華の土台をなした荘園制度――不在地主の経済均衡が崩れて、領地の直接の支配者をしていた地頭とか荘園の主とかいうものが土地争いを始めた。その争いに今ならば暴力団のような形でやとわれた武士が土地の豪族の勢力と結んで擡頭して来て不在地主であった公卿を支配的地位から追い、武家時代があらわれた。やがて戦国時代に入る。ヨーロッパにルネッサンスの花が開きはじめた時代から日本が武家時代に入ったということを、私たちは忘れてはならないと思う。この事実は明治維新に影響し、今日の日本の民主化の問題に重大な関係をもっているのである。
武家時代に入ってからの婦人の生活というものは実にヘレネ以上の惨憺たるものであった。女性は美しければ美しいほど人質として悲惨だった。人質としてとられ、又媾和的なおくりものとして結婚させられる。戦国時代の婦人達の愛情とか人間性というものがどんなにふみにじられたかということは細川忠興の妻ガラシアの悲壮な生涯の終りを見てもわかる。明智光秀の三女であったおたまの方はキリスト教を信仰してガラシアという洗礼名をもっていた。石田三成が大阪城によって、徳川家康に反抗しようとしたとき、徳川の側に立っていた細川忠興の妻であり、秀吉によって実家の一族を滅された光秀の娘であるガラシアは、大阪城へ入城を強要されたのを拒んで、屋しきに火をかけて、老臣に自分を刺させて死んだ。三十六歳の短い生涯の間に、おたまの方は、武門の女の人生の苦痛を味わいつくして、その生をとじたのであった。
この時代には文学の創造者としての婦人は存在し得なくなった。この時代の特色ある文学として現れた謡曲の中に婦人は描かれるが、それは例えていえば物狂い――気狂いとか、愛情の絆によって、生きながら生霊《いきりょう》となり、また死んでも霊となって現れるような、切ない女の心に表現されている。当時の婦人はどんなに自分達の希望を殺して生きていたか、また殺させているという暗黙の恐怖が男たちの意識の底を流れていたかが解る。物狂いと云い、生霊、死霊《しりょう》と云い、そこでは普通でない人間に対する怖れがある。謡曲は僧侶の文学とされている。女のあわれな物語を、現代の闇商売で有閑的な生活に入った人々が唸っているのは、腹立たしく滑稽な絵図である。
徳川家康が戦国時代に終止符をうって江戸の永くものうい三百年がはじまった。この時代の婦人の立場は「女大学」というもの一つを取上げただけで十分に理解することが出来る。徳川三百年と云えば、ひとことだけれども、そこから尾をひいていて今日私どもが解決しきっていない沢山の封建性についての問題がある。支那の儒教の精神を模倣して、封建時代には絶対に家が中心問題とされた。家風にあわざるものは去る。子供を生まねば去る。嫉妬ふかければ去る。七去の掟ということが貝原益軒の「女大学」のなかに堂々とあげられている。妻たるものは早く起きて遅く寝るべきである。女は食物におごってはいけない。この貝原益軒が養生訓をかいて、男の長寿のための秘訣をくどくど説明しているのを見くらべると、私たちは心からおどろかずにはいられない。眠り不足で栄養不良で体のつめたい女に、子を生まなければ去る、というむごたらしさはどうだろう。子のないのを女のせいばかりにする人にどうして養生訓がかけただろう。
徳川時代の文学者としては近松門左衛門にしろ、西鶴、芭蕉にしろ、文学的にはずっと劣るが、有名ではある馬琴だとかが出ている。けれども婦人作家は一人もこの三百年間に出ていない。辛うじて俳句の領域に数人の婦人の名が記されているにすぎない。親や兄、良人、また息子に服従しなければ生きてゆく道がない。自分の意見で生きられない。男が殿様の命令を絶対のものとして服従しなければならなかったとおり、女は男に服従しなければならない時代に、その婦人に文学が書けるはずがない。武士階級にも文学は創造されなくなった。戦さの間には深くものを考えてはいけない。この軍事的教育はついこの間までの日本にも怪異のように存在した。頭を切り取ったその代りに鉄兜をのせられたような人間の生存で、どうして文学という人間らしいうちにも人間らしい創造が行われよう。自分が自分の心の主人であることさえ認められない時代には、それがいつであっても文学は生れない。
芭蕉はどういう境遇のものだったろうか。彼は下級武士で、やがて武士をやめて俳諧の道に入った。芭蕉の風流というものの規準が極端に小さい経済的基礎の上に立っていることは、意味ふかいことである。芭蕉は、小舎の柱に一つの瓢箪をつるし、そのなかに入れた米とそのほかほんの僅かの現世的経済の基礎を必要としただけで、権力のための闘いからも、金銭のための焦慮からも解放された芸術の境地を求めた。それは芭蕉の時代にもう武士階級の経済基礎は商人に握られて不安になっており、したがって武士の矜恃《きょうじ》というものも喪われ、人にすぐれて敏感だった芭蕉に、その虚勢をはった武士の生活が堪えがたかったことを語っている。
大きな商人の隠居だった西鶴はまた違っていた。西鶴が経済的な面で大阪の当時の世相を描き出した短篇「永代蔵」その他は芭蕉と全然違ったリアリティーをもっている。武士出身の芭蕉が芸術へ精進した気がまえ、支那伝来の文化をぬけてじかに日本の生活が訴えてくる新しい感性の世界を求めた芭蕉の追求の強さ、芭蕉はある時期禅の言葉がどっさり入っているような句も作った。その時代を通過してから芭蕉の直感的な実在表現は、芸術として完成された。芭蕉の弟子には婦人の俳人もあった。が女の生活は、たとえ彼女が俳句をつくろうとも、徳川時代の女に求められているすべての義務を果したうえで辛うじて風流の道のためにさかれなければならなかった。芭蕉の芸術のように精煉し圧縮し、感覚をつきつめた芸術の道が、そのような女性の生活ではなかなか歩むにかたいことであった。家事に疲れた僅かの時間を行燈《あんどん》のもとでひっそりと芸術にささげるのでは、女の才能が伸びる可能もまことにおぼつかない。
近松門左衛門は封建の枠にしばられなくなった武家、町人などの人間性の横溢をその悲劇的な浄瑠璃の中で表現した。そして、当時の人々の袖をしぼらせたのであったが、ここには様々の女性のタイプがその犠牲や献身や惨酷さにおいて扱われている。しかし、近松や西鶴に描かれた女性は、自分で自分たち女性の声をかく能力はもたなかった。当時社会のきびしい階級、身分制度によって動かすことの出来なかった堰で、互の人間的発露を阻まれた男女、親子、親友などのいきさつが浄瑠璃者の深情綿々とした抒情性で訴えられている。義理と人情のせき合う緊迫が近松の文学の一つのキイ・ノートであった。近松門左衛門の文学に描かれた不幸な恋人たちは、云い合わせたように心中した。幕府はあいたい死にを禁じていたにもかかわらず、この世では愛を実現出来ない男女が、あの世に希望をつないで死を辿った。
このような哀れな人間性の主張の方法は、決して明治になってからも、日本の社会から消えなかった。そして今日では恋愛から心中しないけれども、生活難から心中する親子が少くなくなって来ていることを私たちは見ているのである。
さて、日本の歴史は明治に移った。明治維新は近代のヨーロッパ社会に勃興した市民階級(ブルジョアジー)が封建社会に君臨した王権を転覆し歴史を前進させた革命ではなかった。日本のブルジョアジーが薩長閥によって作られた政府の権力と妥協し、形を変えて現れた旧勢力に屈従することによって資本主義が社会へ歩みだしたという特殊な性格をもっている。新しい明治がその中にどんな古さをもっていたかということは樋口一葉の小説にも現れている。一葉の傑作「たけくらべ」は、たしかに美しいと思う。雅俗折衷のああいう抒情的な一葉の文章も古典の一つの典型をなしている。
樋口一葉は二十五歳の若さでなくなっている。彼女がはじめて小説を書こうとしはじめたとき、その相談のため半井桃水という文学者との交渉があった。樋口一葉ほどの才能のある女が、桃水のような凡庸な作家とどうして親しくなったかということが、研究者の間でよく話題にされる。小説「雪の日」の題材となる雪の日の日記があって、それを見ると半井桃水は樋口一葉と同様に貧乏であったことがよくわかる。一葉は当時上流人を集めていた中島歌子の塾に住みこみの弟子のようにしていたが、わがままな育ちの若い貴婦人たちのなかで彼女がどんなに才能をねたまれ、つらいめを見ていたかということは、こまかい插話にもうかがわれる。貧乏というものは口惜しいものだということを一葉は日記の中で書いている。半井桃水が借金に苦しめられて居どころをくらまして、小さい部屋にかくれ住んでいる。そこへ一葉は原稿を読んでもらいにもって行く。貧乏な生活が一葉の現実である以上、それをむき出しにしている半井桃水を自分の仲間、一番近い男だと感じたことがうなずける。生活の現実の類似。貧しい仲間だという気持。それが強い動機となって一葉は桃水に親しみを覚えたにちがいない。ところが桃水との交際を中島歌子から叱られる。一葉は桃水との恋などとは思いもよらないことだといって、桃水とのつきあいは絶ってしまった。桃水とつきあいのあった間、樋口一葉に恋の歌は一つもなかった。実際に桃水とのつきあいをやめて、もう誰も自分の身を非難する人がないというようになって樋口一葉はやっと封建的な圧力からぬけて恋の歌をよんでいる。それもどっさりあふれるように、恋の歌をつくっている。これは、明治という時代にあらわれた一つのデスデモーナのハンカチーフだと思う。
ここに一葉の生きていた明治十九年という時代の封建性の強い性格が私たちに多くのことを語っている。この明治十九年という年を世界の歴史でみれば、アメリカで第一回のメーデーが行われた時代であった。そして、はじめて八時間の労働、八時間の教育、八時間の休養を世界の労働者が要求してたった時であった。明治二十三年に日本では、それまでの自由民権運動を禁圧して、専制権力の絶対性を擁護した。この年に世界の国際メーデーがはじまっている。私たちはこんなにヨーロッパ、アメリカとはずれた歴史の本質の上に今日の歴史をうけついでいるのである。一葉の「たけくらべ」は封建的なものと、藤村などによって紹介されはじめていた近代ヨーロッパの文学にあらわれたロマンティシズムの影響とが珍しい調和をもってあらわれた一粒の露のような特色ある名作である。
明治も四十年代に入ったころ、平塚雷鳥な
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