、到頭未完成で終ってしまった。レオナルドほどの画家が、一つの肖像画に着手して数年をかけながら、それが未完成であったというのはどういうことだったのだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチが一応、モナ・リザを描き終ったと思う間もなく、モナ・リザの顔の上に、眼の中に、そして唇の上に、忽ちこれまでレオナルドの発見しなかった何か一つの新しい人間的な情感、女性としての美しさが閃き出たということを語っていはしないだろうか。
 富貴な美しいモナ・リザを描くとき、レオナルドがどんなに心をつくして画室をかざり、音楽を奏させ、彼女をたのしくあらせようとしたかという情景は、レオナルド・ダ・ヴィンチを主人公としてメレジェコフスキーが書いた「先駆者」という歴史小説に詳細をきわめている。モナ・リザの幽玄な表情は、レオナルド・ダ・ヴィンチの限りないひろさと深さをもった知性をとおして、あのように把握されているものだけれども、あの幽玄なうちに充実している官能のつよい圧力は、決して、レオナルドの知性の生んだものではないと思う。モナ・リザの成熟した芳しい女性としての全存在には、あのように深い愁をもったまなざしでどこかを見つめずにはいられない熱い思いがあり、あの優美な手を、そのゆたかな胸におき添えずにはいられない鼓動のつよさがあったのだと思う、そして、また、レオナルドは、何と敏感にそれを感じとり、自分の胸につたえつつ画筆にうつしているだろう。描かれる美しい婦人と、描く聰明なレオナルドとの間に、いつか流れ合う一脈の情感がなかったという方が不自然である。モナ・リザは彼女の感覚によってレオナルドの知性を感じとり、レオナルドは彼のあらゆるデッサンにあらわれているあのおそろしいような人間洞察の能力で、モナ・リザという一人の女性の内奥の微妙な感覚までを把握したのであった。こういう共感が異性の間に生じたとき、これが恋愛の感情でないという場合は非常にすくない。人間同士の調和の最も深いあらわれは、こういうハーモニーにこそあるのだから。
 モナ・リザは、彼女の良人に、レオナルド・ダ・ヴィンチとの間に生まれたような複雑微妙な諧調を感じていただろうか、おそらくそうではなかったろう。そして同時に、モナ・リザは、自分のなかに湧きいでた新しい人生の感覚について、それが、どういう種類のものであるかということは、自分に対して明瞭にしていなかったと思われる。さもなければ、どうして彼女の顔の上にあのように無限に迫りながら、その意志のあきらかでない微笑が漂いつづけたろう。彼女が、はっきり自分の女としての感情の実体をつかんだとき、あのような微笑は、苦痛の表情に飛躍するか、さもなければ大歓喜の輝やきに輝やき出すかしずにいないものである。
 こうしてみると、ここでもまたルネッサンスの感情の姿が考えられる。モナ・リザは、自分の眼をそこからひきはなすことの出来ない快い情感をああやって見つめ、見つめて、我知らず語りつくせない心のかげを映す微笑を浮べてはいるが、ルネッサンス時代の彼女は、そのあこがれに向って行動しなかった。凝視し、ほほ笑み、そのはげしい内面の流れによって永久に一つの肖像を、未完成とレオナルドに感じさせたにとどまった。レオナルドがこの画を未完成としたこころも推察される。未完成の肖像は、その依頼者であるモナ・リザの良人の館《やかた》に送られずにすむ。そして、モナ・リザは、果して、レオナルドが、それを未完成として、いつも自分の傍にとどめておくことに不満を感じただろうか。モナ・リザは、父兄の命令によってその選ばれた人との結婚をし、やがて良人の権力のままに一生を送らねばならなかったイタリーの婦人の運命を、自分の情熱によって破ろうとしなかった。ルネッサンスは、モナ・リザにああいう微笑を湛える人間的自由は与えたが、そのさきの独立人としての婦人の社会的行動は制御していたのであった。
 こうしてみればルネッサンスの華やかな芸術も、その時代の人達を完全に解放してはいなかったことが明かである。
 十八世紀になって、フランスではルソーのような近代的の唯物的な哲学を持った人達が現われて来た。働かねばならないという状態をもたらした産業革命は、この時代から本当に働いて、働くことだけで生きてゆかねばならない勤労大衆を産み出して今日に及んでいる。
 プロレタリアの婦人というものが歴史の上に現れはじめた。この時代に、イギリスやフランスに、幾人もの婦人作家が擡頭した。十九世紀のイギリス文学では、その名を忘れることの出来ないジョージ・エリオット。ジェーン・オースティン。ブロンテ姉妹。ギャスケル夫人。フランスでは、スタエル夫人をはじめ、日本の読者にもなじみの深いジョルジ・サンドなど。そして注目すべきことは、これらの婦人作家たちがスタエル夫人のほかはみんな中流階級の女性たちであったことである。ジョルジ・サンドは、はじめの結婚にやぶれてのち、生活のために苦闘しながら、女性の権利を主張した「アンジアナ」をかいたし、エリオットも文筆からの収入で生活しなければならない婦人として小説をかきはじめた。これらすべての婦人作家が、様々のテーマを扱いながら、結局は、当時の社会が婦人の生涯に与えるフランスの絶対王権でつくり上げられ形式主義と宗教的なものの考え方に対して、人間の自然性というものを強く要求してルソーが現われた。
 哲学者、教育者としてのルソーの考え方は、フランスのルイ十四世から十六世ごろまでの猛烈な専制主義に対して、人間の平等と自由独立、女も男もひとしい人間性の上に立つ自由を主張した。近代民主主義の先駆者であったルソーのほかに、ヴォルテールやディドロのような、近代思想の啓蒙家があらわれた。
 一七九三年のフランス大革命によって、フランスおよび全ヨーロッパに新しい息吹きがふきこまれた。このフランスの大革命の中心人物であったマリー・アントワネットは、腐敗しきっていたフランス宮廷生活の中で、その若々しく軽浮であった一生を最も悪く利用された一人の女性であった。けれども彼女の運命は全く受動的で、歴史的にあれほど様々の角度から話題とされる生涯を送りながら、マリー・アントワネット自身は何も書かなかった。オーストリアのマリア・テレサの娘として最も高い教育を受けていたし、最も多い自由も持っていたはずだけれども。彼女の書いたものは、オーストリアの宮廷への密書だけで、ただ一篇の小詩さえかいていない。あのように小詩がはやり、貴婦人の文学熱がたかかった時代だのに。こういう例をみても、婦人の地位とか学識だけが芸術を生むものではないということが判る。
 ヨーロッパ諸国の資本主義社会がその発展の頂上に近づいた十九世紀になって、ルネッサンス以後十八世紀になってはっきり方向を定めた人間解放の問題が具体化して来て、特にイギリスではどこよりも早く蒸気機関の利用による産業革命が行われ、繊維産業が非常に発達した。イギリスの婦人と子供が非常に沢山工場に働き出した。機械の力は多くの工場から筋肉の力を必要とする仕事に必要であった男を首にして、女房も娘も子供も桎梏に抗しているところは、十分注目に価する。ジョージ・エリオットは、自分が婦人だとわかると、いろいろうるさい差別待遇がおこるのをいやがって、筆名は男のジョージ・エリオットとしてさえいる。ジェーン・オースティンにしても、イギリスの中流家庭で結婚ということについてどんなに打算や滑稽な大騒動を演じるかということを、諷刺的にその「誇りと偏見」の中に書いている。われわれのまわりでも、まだまだ結婚適齢期の娘をもった母親は、時にふれ、折にふれて眼の色を変えている。食べるものも食べないようにして箪笥を買ったり、着物を拵えたり、何時でも売物のように誰かが買いに来るというように待っている。「女のくせに」ということを男だけではなく女自身が云ってもいる。十九世紀にオースティンが非常に諷刺的に書いた状態は、封建的な風習の多くのこっている日本のなかにはまだつよく残っている。同じ十九世紀に、ポーランドの婦人作家オルゼシュコの書いた小説「寡婦マルタ」を、きょう戦争で一家の柱を失った婦人たちがよむとき、マルタの苦しい境遇は、そのまま自分たちの悲惨とあまりそっくりなのに驚かないものはなかろう。
 ところで日本の婦人は、歴史の中でどういう文学を作って来たのだろうか。わたしたちは万葉集というものをもっている。万葉集は当時のあらゆる階層の女の人のよい作品を集めている。女帝から皇女、その他宮廷婦人をはじめ、東北の山から京へ上った防人(さきもり)とその母親や妻の歌。同時に遊女、乞食、そういう人までが詠んだ歌を、歌として面白ければ万葉集は偏見なく集めている。日本の古典の中に万葉集ほど人民的な歌集はなかった。万葉集以前の古事記や日本書紀の中で、最初に描かれた女性であるイザナミノミコトは、古事記を編纂させた人は女帝であったにもかかわらず、それを書いた博士たちの儒教風な観念によって、男尊女卑の立場においてかかれている。
 万葉集は、この歌集の出来た時代に日本の社会全体がその生産方法とともにどんなに原始的であったかということをそのまま反映している。人々は直情径行で、美しいことは美しく、泣きたい時に泣き、愛すれば心も身もその愛にうちこむ日本人の感情が現われている。万葉集をみると、当時は支配権力が決して後世のように確立していなかったこともうかがえるのである。
 万葉集の時代が過ぎて文学のうえで婦人が活躍した藤原時代が来る。王朝時代の文学は、主として婦人によってつくられたということがいわれている。栄華物語、源氏物語、枕草子、更級日記その他いろいろの女の文学が女性によってかかれた。なかでも紫式部の名は群をぬいていて、「源氏物語」という名を知らないものはないけれども、その紫式部という婦人は何という本名だったのだろう。紫式部というよび名は宮廷のよび名である。大阪辺りの封建的な商家などで、女中さんの名前をお竹どんとかおうめどんにきめているところがあった。そういうふうな家では、小夜という娘もそこに働いているうちはお竹どんと呼ばれるが、宮中生活のよび名で宮中に召使われているものの名であった紫式部、清少納言、赤染衛門というのも、それぞれ使われているものとしての呼名である。紫式部が藤原の何々という個人の名前は歴史のなかへあらわれて来ない。清少納言も同様である。これまで日本歴史の家系譜の中にはっきり名が現われている婦人は藤原家も道長の一族で后や、中宮になったり王子の母となったりした女性だけである。美しきヘレネのように、藤原一族の権力争いのために利用価値のあるおくりもの、または賭けものであった婦人達だけが名前を書かれている。
 源氏物語を書くだけの大きな文学上の才能と人生経験をもちながら現実の、婦人としての生活は男子なみでなかったということがよく判る。更級日記をかいた婦人も名がわかっていない。そして、この中流女性の生活をかいた更級日記には、不遇な親をもった中流女性が、不安な生活にもまれる姿が優美のうちにまざまざと描かれている。枕草子は非常に新鮮な色彩の感覚をもっている。青い葉の菖蒲に紫の花が咲いているのを代赭《たいしゃ》色の着物を着た舎人《とねり》が持って行く姿があざやかであるとか、月の夜に牛車に乗って行くとその轍《わだち》の下に、浅い水に映った月がくだけ水がきららと光るそれが面白い、と清少納言の美感は当時の宮廷生活者に珍しく動的である。感覚の新しさはマチスに見せてもびっくりするであろう。十一世紀の日本の作品とは信じまい。その清少納言という人は誰だったろうか、そして、どうなって一生を終ったかということも判らない。文学の歴史の中にさえ普通の個人の婦人の生活は残っていない。そのような当時の社会のなかで清少納言、紫式部そのほかの婦人がそのように文学作品を書いたという動機は何だったのだろうか。藤原家の権力争奪は烈しい伝統となっていて后や中宮に娘を送りこむときその親たちは、政治的権力を社光的場面で確保するために文学的才能のある宮女を
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