ス時代は文学作品ばかりでなく、絵画に彫刻に雄大な作品が花と咲き満ちた時期であった。けれどもじっと見ていると、ミケランジェロの絵のなかには何か憂鬱がある。有名なバチカンの壁画など見ていると、宇宙的なミケランジェロの雄渾さとともに一種のみのがせない憂鬱がある。ミケランジェロの伝記を読むと、彼があれほどの才能を持ちながら、法王の我ままと気まぐれのためにどんなに圧迫されたかがよくわかる。ルネッサンスの半面には、まだまだ封建的な苦しいものがあり、法王と芸術家の関係にさえそれが残っていたことがわかる。
当時の法王は、ミケランジェロの才能を認めながら、自分の絶対性を信じる習慣から封建的で、ミケランジェロの芸術家としての人間性を十分認めなかった。ミケランジェロの巨大な才能と大きな人間性のなかには、いつも自分を出し切れない不安があった。丁度デスデモーナが愛と一緒にいつもオセロを恐がっていたと同じように。ミケランジェロは自分の才能と一緒に法王を恐れなければならなかった。
ルネッサンスの表は、華麗豪華な厚肉浮彫の歴史であるが、その陰の部分には封建性が濃くのこっていた。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチのモナ・リザはどういう笑いを今日にのこしているだろうか。モナ・リザの微笑は、それが描かれた時代から謎のほほ笑みと云われて来ている。モナ・リザの笑いは、それを見つめている人の心を深くあやしく魅して気を狂わすような微笑と云われている。このモナ・リザのほほ笑みは解放された女のほほ笑みではなく、やはりデスデモーナの不安と、ミケランジェロの憂鬱につながったものであると思う。
世界的な謎の微笑をほほ笑んでいるダ・ヴィンチのこの婦人像は、唇、頬、そして眼の中でほほ笑んでいるだけで、歯をみせて嬉々として笑ってはいない。モナ・リザはじっと何か見つめている。そのまなざしは非常に深くて、こころをたたえているが、それも決して嬉しさにきらきらしている眼ではない。重い、ふっくりと美しい瞼の下の憂鬱な視線である。けれども彼女は、あんなにじっと見つめて、じっと笑いをもっている。モナ・リザ、ジョコンダの笑いの本質はどういうものなのだろう。私たちは女としての自分の心から、モナ・リザとレオナルド・ダ・ヴィンチの心情の中に迫って見ようと思う。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、この美しいモナ・リザの肖像にとりかかって数年間を費したが、到頭未完成で終ってしまった。レオナルドほどの画家が、一つの肖像画に着手して数年をかけながら、それが未完成であったというのはどういうことだったのだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチが一応、モナ・リザを描き終ったと思う間もなく、モナ・リザの顔の上に、眼の中に、そして唇の上に、忽ちこれまでレオナルドの発見しなかった何か一つの新しい人間的な情感、女性としての美しさが閃き出たということを語っていはしないだろうか。
富貴な美しいモナ・リザを描くとき、レオナルドがどんなに心をつくして画室をかざり、音楽を奏させ、彼女をたのしくあらせようとしたかという情景は、レオナルド・ダ・ヴィンチを主人公としてメレジェコフスキーが書いた「先駆者」という歴史小説に詳細をきわめている。モナ・リザの幽玄な表情は、レオナルド・ダ・ヴィンチの限りないひろさと深さをもった知性をとおして、あのように把握されているものだけれども、あの幽玄なうちに充実している官能のつよい圧力は、決して、レオナルドの知性の生んだものではないと思う。モナ・リザの成熟した芳しい女性としての全存在には、あのように深い愁をもったまなざしでどこかを見つめずにはいられない熱い思いがあり、あの優美な手を、そのゆたかな胸におき添えずにはいられない鼓動のつよさがあったのだと思う、そして、また、レオナルドは、何と敏感にそれを感じとり、自分の胸につたえつつ画筆にうつしているだろう。描かれる美しい婦人と、描く聰明なレオナルドとの間に、いつか流れ合う一脈の情感がなかったという方が不自然である。モナ・リザは彼女の感覚によってレオナルドの知性を感じとり、レオナルドは彼のあらゆるデッサンにあらわれているあのおそろしいような人間洞察の能力で、モナ・リザという一人の女性の内奥の微妙な感覚までを把握したのであった。こういう共感が異性の間に生じたとき、これが恋愛の感情でないという場合は非常にすくない。人間同士の調和の最も深いあらわれは、こういうハーモニーにこそあるのだから。
モナ・リザは、彼女の良人に、レオナルド・ダ・ヴィンチとの間に生まれたような複雑微妙な諧調を感じていただろうか、おそらくそうではなかったろう。そして同時に、モナ・リザは、自分のなかに湧きいでた新しい人生の感覚について、それが、どういう種類のものであるかということは、自分に対して明瞭にしていなかったと思
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