われる。さもなければ、どうして彼女の顔の上にあのように無限に迫りながら、その意志のあきらかでない微笑が漂いつづけたろう。彼女が、はっきり自分の女としての感情の実体をつかんだとき、あのような微笑は、苦痛の表情に飛躍するか、さもなければ大歓喜の輝やきに輝やき出すかしずにいないものである。
こうしてみると、ここでもまたルネッサンスの感情の姿が考えられる。モナ・リザは、自分の眼をそこからひきはなすことの出来ない快い情感をああやって見つめ、見つめて、我知らず語りつくせない心のかげを映す微笑を浮べてはいるが、ルネッサンス時代の彼女は、そのあこがれに向って行動しなかった。凝視し、ほほ笑み、そのはげしい内面の流れによって永久に一つの肖像を、未完成とレオナルドに感じさせたにとどまった。レオナルドがこの画を未完成としたこころも推察される。未完成の肖像は、その依頼者であるモナ・リザの良人の館《やかた》に送られずにすむ。そして、モナ・リザは、果して、レオナルドが、それを未完成として、いつも自分の傍にとどめておくことに不満を感じただろうか。モナ・リザは、父兄の命令によってその選ばれた人との結婚をし、やがて良人の権力のままに一生を送らねばならなかったイタリーの婦人の運命を、自分の情熱によって破ろうとしなかった。ルネッサンスは、モナ・リザにああいう微笑を湛える人間的自由は与えたが、そのさきの独立人としての婦人の社会的行動は制御していたのであった。
こうしてみればルネッサンスの華やかな芸術も、その時代の人達を完全に解放してはいなかったことが明かである。
十八世紀になって、フランスではルソーのような近代的の唯物的な哲学を持った人達が現われて来た。働かねばならないという状態をもたらした産業革命は、この時代から本当に働いて、働くことだけで生きてゆかねばならない勤労大衆を産み出して今日に及んでいる。
プロレタリアの婦人というものが歴史の上に現れはじめた。この時代に、イギリスやフランスに、幾人もの婦人作家が擡頭した。十九世紀のイギリス文学では、その名を忘れることの出来ないジョージ・エリオット。ジェーン・オースティン。ブロンテ姉妹。ギャスケル夫人。フランスでは、スタエル夫人をはじめ、日本の読者にもなじみの深いジョルジ・サンドなど。そして注目すべきことは、これらの婦人作家たちがスタエル夫人のほかはみんな中流階級の女性たちであったことである。ジョルジ・サンドは、はじめの結婚にやぶれてのち、生活のために苦闘しながら、女性の権利を主張した「アンジアナ」をかいたし、エリオットも文筆からの収入で生活しなければならない婦人として小説をかきはじめた。これらすべての婦人作家が、様々のテーマを扱いながら、結局は、当時の社会が婦人の生涯に与えるフランスの絶対王権でつくり上げられ形式主義と宗教的なものの考え方に対して、人間の自然性というものを強く要求してルソーが現われた。
哲学者、教育者としてのルソーの考え方は、フランスのルイ十四世から十六世ごろまでの猛烈な専制主義に対して、人間の平等と自由独立、女も男もひとしい人間性の上に立つ自由を主張した。近代民主主義の先駆者であったルソーのほかに、ヴォルテールやディドロのような、近代思想の啓蒙家があらわれた。
一七九三年のフランス大革命によって、フランスおよび全ヨーロッパに新しい息吹きがふきこまれた。このフランスの大革命の中心人物であったマリー・アントワネットは、腐敗しきっていたフランス宮廷生活の中で、その若々しく軽浮であった一生を最も悪く利用された一人の女性であった。けれども彼女の運命は全く受動的で、歴史的にあれほど様々の角度から話題とされる生涯を送りながら、マリー・アントワネット自身は何も書かなかった。オーストリアのマリア・テレサの娘として最も高い教育を受けていたし、最も多い自由も持っていたはずだけれども。彼女の書いたものは、オーストリアの宮廷への密書だけで、ただ一篇の小詩さえかいていない。あのように小詩がはやり、貴婦人の文学熱がたかかった時代だのに。こういう例をみても、婦人の地位とか学識だけが芸術を生むものではないということが判る。
ヨーロッパ諸国の資本主義社会がその発展の頂上に近づいた十九世紀になって、ルネッサンス以後十八世紀になってはっきり方向を定めた人間解放の問題が具体化して来て、特にイギリスではどこよりも早く蒸気機関の利用による産業革命が行われ、繊維産業が非常に発達した。イギリスの婦人と子供が非常に沢山工場に働き出した。機械の力は多くの工場から筋肉の力を必要とする仕事に必要であった男を首にして、女房も娘も子供も桎梏に抗しているところは、十分注目に価する。ジョージ・エリオットは、自分が婦人だとわかると、いろいろうるさい差別待遇が
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