分の意志で踏み込んだ経験としてではなく受取った。私どもは人間として誇るべき何ものもない戦に追いたてられた。全く家畜のように追込まれた戦争で、自分たちを犠牲にして来ているために、殆ど夢中で体だけで苦しさに耐え、文学をつくるところまで精神を保っていることが出来なかった。あの当時は女も男も夢中で生きていた。あまりに受身で過ぎた。民主主義文学への翹望は高いのに、何故戦争に対する人民としての批判をもった文学、婦人が母親として、愛人として、また婦人に対して重荷の多い社会の中で経済的に自分が働いて家の柱となって来たその経験について、女の人が文学を書き出さないか。この原因は、今日になってみればただ経験の仕方があまり受けみであったばかりでなく、戦後の生活に安定がもたらされていないということに重大な関係がある。戦争で蒙った心の傷をいやし、文学を生み出してゆけるような生活のみとおし、勤労による生活の確保が失われている。二三ヵ月に物価がとび上るインフレーションは、一人一人の経済を破滅させているとともに、婦人の社会的生活、家事の心痛を未曾有に増大させている。先ず、生きなければならない。生きてこその文学である。文学は逆に云えば、最も痛烈な人間的生の発現である。
 私どもはここで、一つの現実的理解に到達した。文学の発展にはそれにふさわしい社会的な基盤が必要であり、勤労階級の生活の安定の要求は全くぴったりと私たちの人間らしい文化の要求と一体のものであるという事実である。改正された憲法は男女を平等としている。しかし現実の生活で男女の労働賃金は同一でない。男女はひとしく選挙権も被選挙権もあるといってもその土台になる経済的・社会的生活のひとしさはまだまだ実現していない。労働組合や、すべての民主勢力が要求している賃金、待遇改善の問題、家事の社会化の実現などは、婦人の二十四時間の内容を男の二十四時間の内容と、おのずからのちがいはありながらも、その社会的質の高さでは等しくしてゆくために、絶対に必要な前提条件である。
 あらゆる文化の基本になる教育についてみよう。憲法は、すべての人は教育を受けることが出来るといっている。だが今日、毎日ちゃんと通学している学生が、殆ど有産階級の子弟だということは、民主日本の建設にとって、どういう重大なマイナスであろう。学生も食うために闇屋さえやっている。憲法で云われているだけでは駄目である。実際の可能を作って行かなければ、教育の民主化という問題は甚しい欺瞞となる。
 すべての人は働くことができる。そうであるならば最低限の生活の安定がその勤労によって保たれ、勤労人民としての社会保護が確保されなければならない。そのような全人民の社会的な生きかたの要求、その実現の努力とともに、民主文学の可能性も拡大されるのである。労働時間と賃金の問題は、人民にとって、人間的生存の問題であり、文化の問題でもある。人間であれば時間によって命をきざまれている。その時間をその人と社会の幸福のためにつかうか、搾取の対象とされるかでは、本質的な運命のちがいが起る。これを否定するものがあるだろうか。
 こういう文化・文学の問題にふれて六・三制の問題を、見直す必要がある。日本の国民学校六年の卒業生の実力が四年修業程度しかないことが、アメリカの教育視察団によって報告された。民主日本建設のために人民一般の知能水準の向上のために義務教育の年限を長くしなければならないとされ、文部省は六・三制ということをきめた。九年の義務教育と云わず六年と三年を分けて六・三制と考えている。何故一まとめに九年制といわないのだろうか。九年制にしてどの子供もその間は勉強出来るように国庫がその保証をしてやらなければこのインフレーションの中で月謝を払い御飯を食べさせ学用品を買ってやるということは益々貧困化して来ている親の多数にとって負担である。
 文部省にこの実状がわかっていない筈はないのに、六・三と分けて、後の三年は通信教授だけでもいいということを法文化しようとしている。あとの三年は実際に学校へ行かないでもただ通信教授をうけただけで義務教育は終ったということになる。第一、初等中学三年という新しくふえた生徒のために学校が足りない、教師がない。教科書さえそろわない。しかも一応六年を終った年ごろで親の役に立つようになった子供は買出しの手つだいにも行ったりして困難な日々のやりくりにまきこまれ時間がない。戦災者、復員者、引揚者みんな困窮している人々は六年を終った子供を生計のための助手にしなければやりきれない場合が多い。工場へなり給仕になり店員になりやってせめて喰べるものだけは、何とかして雇主にもって貰いたいという非常に切迫した要求がある。現に職人のところで使われる小僧さんの姿が目立ってふえて来ている。ブリキヤとか大工とか
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