、デスデモーナへの歯がゆさで煮えて来る。どうして、デスデモーナ! 良人のオセロをそれほど愛しているのなら、率直に早くハンカチーフのとられたことを告白して、その不安や困惑を、オセロとともにわかとうとしないのだろうか、と。デスデモーナは、オセロを熱愛しながら、一方で畏怖している。オセロの愛のはげしさをうけみにおそれて、これをなくさないように、と云われたその言葉の力に圧せられ、麻痺させられてしまっている。デスデモーナのこの分別のない過度の従順さ、清浄さ、無邪気さ、品のよさのために、オセロの悲劇は防ぐことが出来なかった。
 ルネッサンスに、こういう作品の出来ていることを、わたしたちは意味ふかくうけとらずにはいられない。ルネッサンスは婦人の人間性も解放したけれどもその人間性は、デスデモーナにおいて、どんなにまで受動的であり、分別が不たしかであやうげなものだろう。私達の今日の常識でいえば、非常に大事なハンカチーフをなくした場合は、貴方からいただいたハンカチーフをなくしました、どうか一緒に探して下さいと告げると思う。見つからなくて、非常に叱られたとしても、そのことによって自分の愛情が変っていないこと、失くなったのは一つの災難であるということを認めてもらう。何故ならハンカチーフはもの[#「もの」に傍点]にすぎない。ここで本質的な問題は夫婦の愛の問題である。愛のしるしのハンカチーフは失われても、愛は守らなければならないし守られ得る。そこに人間の自主的で、状況をのりこしてゆく愛情があるわけである。ところがデスデモーナをみると、ルネッサンス時代の上流の婦人というものがそういうふうに自分の愛を守り自分達の悲劇を防いでゆく能力はかけていたということが考えられる。女性のいじらしさとして、男の側からデスデモーナのような性格がみられていたということにもなる。デスデモーナの悲劇は、限りないオセロへの従順さ、献身が、はっきりした判断と意志とを欠いていたために、事態を悪い方へ悪い方へと発展させイヤゴーの奸智に成功を与えるモメントとなっている。こういうデスデモーナを思うとき、私たちの心には、自然さっきのヘレネの問題につづく婦人の立場ということが考えられて来る。
 ルネッサンスはデスデモーナに、皮膚の色のちがうオセロを愛させる感情のひろがりをみとめたが、その愛を完成する知性までは開花させていない。ルネッサン
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