恋愛から結婚へ急ぐ事から、所謂《いわゆる》恋愛結婚が破綻をした例が多いため、かえって媒酌結婚がいいというような考えかたも生んだのだと思います。結婚出来る相手を恋愛することが出来るまで、男も女も、根気強くまた忍耐も強ければ問題はないでしょうが、誰れでもそれは求められないから、結婚出来ない恋愛があったとして、それと結婚は別だというような、妙に打算的なものの加った区別の仕方で見てそれに対してゆけば大きい問題だと思います。あの人間としてのモラルの問題があるのは、このところでしょう。結婚に到ることの出来ない恋愛だったとしても、それが生活のなかに起った時には、男も女もお互いに人間としての誠意を充分持ち責任も持ち合い、矢張りその恋愛で、互いが高められて、つまりは人間というものの良さがお互いの胸に残って、そのことで別の人と結婚してもその生活に一層豊富にされた人間への尊敬を以て這入って行ける――そう云うものである筈でないでしょうか。そうすれば、いわゆる恋愛関係の時起って来る種々の問題のお互いの間での処置の仕方も、お互いとしての一の見透しがつく訳ですし、結婚後どっちにとっても、蔭の事ではなくなる。そう云う恋愛に就ての、結婚に就いての態度がはっきりすれば、始めて男と女の友情というものも客観的にもなりたって来る訳ですからね。
 結婚前の細君の男友だちが結婚した後もその家庭の友人となって、ちっとも不潔でないという生活の展《ひろが》りもできて来るでしょう。一種のルーズな物判りよさみたいなもので女の甘やかされた形で、夫の人が某々《なになに》君も君を尊敬しているんだよと云う調子で、だらだら続けられているような「男友達」との家庭的交渉は逆に男の人が自分の「遊泳」の余地を残しておく賢い方法で大したことはありませんね。いずれにしろ、真面目に今日恋愛と結婚を考える人は、その気持を相手の人にだけ寄せかけないで、自分の気持を自分でもって行くばかりでなく、相手の人の気持も自分があるところまでは、引き負い、引き立てて自分たちの幸福を日々の現実の中で捉えて行く心持がなければやって行けないと思います。

[#ここから5字下げ]
おしゃれについて、どう考えますか。パーマネントの問題でやかましいですが、美しくしていた方が、気持がいいと思いますけれど。
[#ここで字下げ終わり]
 私だって自分なりのおしゃれは矢張り好きですし、女の人がほんとに自分が好きでしているおしゃれの中に、自分から心持よさそうに動いているのを見るのは、随分好きです。お化粧や着物の撰び方などで急速に巧者になて来ています。この間うちパーマネントのことが大変やかましく云われていましたが、おしゃれもほんとうは、ぐっと進めば女の人の方からああ云う問題は自然解決してゆくものだし、当然そこを目指されていいものでしょう。似合う似合わぬから云っても、場所とか職業とか時代の生活の気分とか、そう云うものが敏感に女の感情の中で捉えられれば、まるで似合わないそしてそぐわないでこでこの装飾的な頭を誰れでも何処へでも持ち廻るという趣味はおかしなことに理解されて来るでしょう、着物とか髪形とか云うものは随分その人の人柄を細く照返しているから、女の人が自身からそれを自覚し自分の表現としておしゃれを掌握するようになることが大切だし、その中に女の独創性というものも、育つでしょう。今の若い女の人は自分の心持ちの張りというものと誇張というものの境をよく掴んでいないように思います。だから服飾として誇張されているものが、そのままほんとうの生々した女の心の張りから生じる線や色の取合せのニューアンスというものが壊される場合が比較的に多い。夜のお化粧とか朝のお化粧とかそう云う化粧読本の箇条としての一般論みたいなものは行き渡っているようだけれども、もっと自分に即して、自分の気持をとらえているという風のおしゃれは、まれに思えます、それは一応通ななり[#「なり」に傍点]、凝ったなり[#「なり」に傍点]、或はシークななりというのとは自ら違ってね。そう曰く因縁の難くない材料や気持の取合せでその人が語られているというのは、気持よいと思います。身なりのおしゃれも、追いつめて行くとありきたりのようですが結局心のおしゃれなんでしょうね。

[#ここから5字下げ]
心のおしゃれと云われると、技巧している心の意味にも思われますが、まさかそうではないでしょうね。
[#ここで字下げ終わり]
 それは真個《ほんと》のおしゃれが低い意味での技巧で追つかないと同じで、心のおしゃれも、生々した感受性や、感じたものを細やかにしっとりと味わって身につけてゆく力や、心の波を周囲への理解の中で而もたっぷり表現してゆく力や、そう云うものの磨かれてゆくことを意味していると思うのですがね。

[#ここから5字下げ]
と仰言《おっしゃ》るのは、暮し方の心掛けですか。
[#ここで字下げ終わり]
 そうでしょうねえ。私達の生きている心持ちと云うものは、面白い不思議なものね。自分をこめての現実をどこまで理解して行くかと云うこと、得て来たものでまた現実を更《か》えてゆくということは全く自分の努力なしにはあり得ないことですから、そう云う意味を生活というなら、毎日暮していても生活はしていないという生き方も実際にあるのです。映画一つ見ても見方はいろいろでしょう、せんだってうち、評判のよかった映画で「我が家の楽園」がありましたね、御覧になりましたか。あれはアメリカの映画の中で家庭というものが、これ迄になかった見方で扱われていた一つの例ではないでしょうか。これまで家庭が壊される悲劇をよく扱って来ているのだけれど、あれでは金はなくても銘々が好むところを発揮して営んでゆく家庭の楽園が、空想的にまで主張されており、従来の映画の中では、破壊者の役割に廻っていたお金持ちの事業家などでもあの映画の中では、その過程の楽園の喜びと機智に負けて譲歩するハピイエンドです。あれをどんな気持で皆さん御覧になったでしょう。
 ああ云う風に銘々の好むところで自由にやっていて而も団欒《だんらん》して行くということを、自分たちの家庭で実現出来ることとして楽しんで見たでしょうかそれとも全体として価のない作品だとお思いになったでしょうか。その二つの見方はどっちも、それだけの理由があると思います。他愛《たわい》のないという印象を与えたことも真《ほん》とうでしょう。何人かの女の人からそう云う批評を聞きました。その人たちはあれがアメリカで好評なのは何故でしょうと不満相に云いましたけれど、その何故でしょうというところに心を止めた問いを自分にも向けていた人はありませんでした。なんだ、つまらないという意味でも何故でしょうと云い棄ててしまうのと、一歩すすめてその先にあるものを解らして行きたいと思う心との間にある違いが、つまり心のおしゃれの可能である気持とない気持の違いだと思います。あの映画が現在のアメリカが経済的な行詰りを感じていながら、それを徹底的な方向で打開し得ず人々の心がまた現在自分たちの置かれている矛盾や困難を写実的にとりあげた作品を喜ばないような逃避的な気持にいる、その一面の現れがあの映画にでている訳でしょうが、判って見ればあの他愛なさそのものが矢張り何か考えさせるものを持っているのです。
             *
 面白い本と云えば、羽仁五郎『ミケルアンジェロ』小倉金之助さんの、『家計の数学』山の好きな方に、チンダル『アルプスの旅より』又は『アルプスの氷河』など興味あるでしょうし、女の活動面が新しく展かれてゆく一つの姿としてアメリカのイヤハート夫人『最後の飛翔』も心にのこる本です。
 読書でも、音楽をきくことでも、演劇、映画を見ることでも、只見聞くという消費的な接触を進めて、自分の心持ちをそのものに向って展いてうけ入れて考えてゆき、自分の生活の実際との結びつきで、いつも咀嚼《そしゃく》してゆくということが、大事な心の営養のヴィタミンABCDでしょう。
[#地付き]〔一九三九年九月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「婦人画報」
   1939(昭和14)年9月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング