女性の生活態度
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)欧羅巴《ヨーロッパ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|室《しつ》一室に棲んでいる人が、

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自分ひとりの生活をなんとかして一度やって見たいと思っている一方、それを反省し家庭にいるべきだと迷っている人が多いのですが――。
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 その気持はよく判りますね。恐らく十人が十人そう云った気持を経験しているのではないでしょうか。時代の移り変りが烈しいから、日本の家庭の中では、お母さんと娘さんでは言葉遣いまで違うのですし、それに連れ色々感情の細い動きが随分違うところがあるでしょう。それに家庭の昔ながらの習慣では女の子と云えば、矢張り子供のうちから、
「男の子とは違うんだよ」
と云う様な叱られ方から始って、「年頃」と云うものの型にはまった考え方と窮屈さがあるし、そのことが、また、先々結婚ということを見とおしている。その結婚もその家としての流れがつながっている感じだから、生活に対して、生々としたものを求め豊富な若い時代を過したいと思う人はなんとなく家庭から離れた自分一人というものを広い世の中に触れさせ、生きて見たい心持がするのでしょう。
 それはどんな年齢になっても人間の心にある一つの面白い面ですね。細君になっている人でも、そう云う気持はあるでしょう。職業を持っている若い女の人は、直接自分の周囲にひとりで生活している人を見てるし、また、映画だのいろんな文学的作品のなかで、職業婦人としての近代性の一つとして様々のそう云う生活の絵を見ている訳だから、自から心に描かれるものもある訳でしょう。そう描いたものを持ち、さて、一人になって暮して見ると矢張り新しい現実の困難が出て来ることもよく判ると思います。大体日本の社会が家庭というものを、実際は大分難破しかかっているにも拘らず、唯一の心の寄り所のようにして来た歴史が長くて、今日のところでは女の人にしろ男の人にしろ、矢張り古い形で家庭の夢の残りを持っている、そしてまた、それに執着して生きていると思います。ですから個人の生活と云うものの在り様が、ある意味では充分に一人一人の中に根を卸し切っていない。このことは良かれ悪しかれ欧羅巴《ヨーロッパ》の社会の中で育っている男女とは、気持の出来具合の上で、随分違いがあるでしょう。
 アパート生活と一人の女の人の生活とは結びつけられるものだが、そのアパートの一|室《しつ》一室に棲んでいる人が、どんな気持で住んでいるかと云えば不知不識《しらずしらず》のうち、今のアパート暮しは一時的なものという気持、結婚するまでとか、又、結婚している人は、子供が生れるまでとか、そう云う気持が一|室《へや》一室の壁をとおして滲み出ているでしょう。その気分と、始めて一人になって暮して見る若い女の人たちの中にある家恋しさの気持(それはいろいろな複雑な形で出てくると思うが)が結びついて、矢張り何かアパートの一室の中で営まれる自分の生活の中に、永続的な見透しや、確信をもっていないでしょう。
 女の人がひとりになると自堕落になるとか、いろいろの誘惑が危険であるというのは、外部との結びつき方を、受身に見て云うことで、その人々の心持ちを主にして、その側から見れば、その気持の中に、自堕落にさせたり、ちょっとした好奇心や誘いかけにもろくなっている様な独立的でない感情があるからではないでしょうか。
 男の人はよくこんなことを申します。
「女なんてひとりだと案外すごいんだね、随分だらしが無いよ」
 だらしがないと云うのは、家持ちのことをその場合云っているのです。例えば台所がピカピカしていないとか、洗濯物がたまっているとか、お副采をちゃんと拵えないで、罐詰ばかりや出来合のもので済ましたりしているのを云っているのです。こんなことも考えて見るとおかしい、何かユーモアがある。何故か、考えて御覧。若い男の人が一人暮ししていて、増して勤めていて、台所が汚いと云い罐詰を食べると云って、「あいつも相当だ」という人は無いでしょう。それは男と女は違います。でも、違いますというのは何でしょう。
 女は台所もきっちりし、自分が料理しているべきだという観念が、わたくし達女の気持にも強く這入《はい》っている。それをちゃんとやって行かぬと、自分自身も気持が悪いところがある。併し今日の世の中で、一人の女の人が一人でアパートを持ってともかく暮しているだけのお金をとって行く働きは、時間から云えば、八時から夕方五時過ぎまでは、仕事に就いていなければならないもっと時間的に長くて働きも烈しい職業も少くありません。例えば雑誌の編輯でも校正の最後の日は徹夜さえするでしょう。男の人と全く同じような働き方だと思います。それが、女であるだけ疲れかたが違ったところにあり、働いている間|身装《みな》りにしろ男の人の方が働き易い自由さを持っていると思う。和服の帯付きで働いている女の人だってまだ数は多いでしょう。そして疲れて帰ってその上台所をぴかぴかに出来ぬし、夜の九時からお料理でもなく、矢張り男の人の様なお腹の充たし方をして寝なければならない。女の人の場合には、そのことが男と違う感じで自分に感じられましょう。何か、自分が粗くなって行くような、湿いを失って行くような、そう云う怖さを自分で感じるでしょう。その自覚がまた逆に女の人に作用して生活に自信を失わせ、自信を失ったことから、貧弱になり乾いて来るような、そう云う関係ではないでしょうか。
 そして矢張り女は家庭にいるべきだと云うような結論に戻るのではないでしょうか。それも親がかりの場合に一番すらりと感じられる結論で、それなら職業を女のひとが主婦として家庭の仕事と自分の職業と夫婦生活の幸福という点から考えた場合、そう簡単に今迄あったとおりの形で家庭がいいと肯定もしきれますまい。一人の女の生活の形態とはこれだけ見ても実に複雑に生きてる社会の諸条件と関係し合っています。だから今日の世の中で、何か一つのことをやって行くには、どちらからも差障りの起らないそれでいて自分の一番願うことが実現されていくという様なことは実際には先ず無いでしょう。ですから、自分の生活の中で、一番守りたい点、一番成長させたい点、一番得て行きたい点、或はまた一番与えて行きたい点というものを、自分ではっきり見極わめ、そのことの為めには、まあどうでもよいことは、第一のものに次ぐものとして目安に置いて、中心を押して生活を基いて行くしか無いのではないでしょうか。そのことには、本当に女の勇気や、智慧や、ある場合には男の人を納得させて行く優しい雄々しさというものが必要でしょう。

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今日一般的に、相手が貧乏のときは恋愛の時は別として結婚しない、という意見が強いのです。これはつまり、金持なら愛なき結婚もいとわぬと云うことになるのですが、如何考えますか。
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 矢張り全く恋愛抜きで昔のように嫁にやられることを望んでない気持は誰れでも一応は持つとこまで来ているのでしょうね。昔ね、菊池寛が「真珠夫人」という小説を書いて金の為めに人身犠牲《ひとみごくう》のような結婚をさせられた人の悲劇を書いてたことがあります。親の借金のかたに金持ちに嫁にやられるということで考えれば、恐らく十人のうち九人までそれを女として耐え難いことだと思うでしょうが、自分から結婚問題として考えて行ったとき恋愛はないけれども、生活には安定しているのだからという点で、リアリスティックに判断した積りで、それを拒《こ》ばまない気持というのは現代の半分自覚して半分自覚せず、その自覚しない半面では強く現実の中の打算に負けている女の心の動きかたを語っていると思います。
 何時ぞや映画の若い女優さんの座談会があって、そこでは吉屋信子さんが司会していらしたのですが、若し好きな人が出来て、その人が貧乏だったらどうするでしょうと云う話が出ました。すると一人の活溌に話している女優さんが、「あたしは始から、そんな人好きにならないわ」と至極明快に断言しているのです。すると吉屋女史が、「ほんとうにお金の無い人との結婚はするものじゃありませんよ」というような意味のことを云っておられました。その応待を読むと思わず噴き出しますけれど、後で直ぐ何か厭やな気持がするのです。若い女の人が経済的な事情を抜きにして、恋愛を至上的なものに考えたり、そのように行動することそれ自身は悪いことでもなんでもないけれど、現実の今日の社会の中で、そう云う空想的な人間の結び付きは結局経済的なもので打毀《うちこわ》されたりするから、愛情のしっかりした成長のためには、その愛情が条件として持っている経済的条件をよく知って、建設的な方法を打ちたてて行かなくてはならないと云う意味でこそ、経済的な実際性が、女にも男にも求められるのです。金というものも現在では人間を支配するものとなっているから、金持ちの家庭ということは金を持っていることが善い悪いと云うのでなく、金を守らなくてはならない所からその家《うち》の人々の物の考え方も判断の仕方も行動の仕方も特徴がついてくる。それは避け難い現実ですからね。そう云う人間の生き方と、自分が求めている生き方とが、ぴったりするか、しないものかと云うところから選択の標準が出てくる訳です。
 女と男とがお互いに交渉を持ってましなものにして行こうとするものとして、経済問題が出て来る。女の人の負うべき努力の部分というのは、その中で多くの部分が予定されているのです。今日の実際の恋愛という風なものは、そう云うものだと思う。その点を何か勘違いしている場合が多いと思いますが、どうでしょう。経済的な目というものを、結婚や恋愛の場合女の側から男にだけ求めるものとして女に考えられている場合があるし、ひどいのになると、結婚は人生の事務であると云うような理屈づけで、恋愛の場合は男の人が、お茶代や映画を見物する費用、ハイキングに行くこと位出来れば辛棒しているが、結婚となるとすっかりその標準を高くし、どうせ結婚するなら生活の安定が無くちゃねえと云うようなことを当然と考えている人もなくはないらしい。
 またね、さっきの女優さんのことになってお気毒ですが、ああいう一見無邪気に人を噴き出させるような表現の中に、なんという深い生活の垢みたいなものが満ちているでしょう。女優さんと云う職業の関係もあるかも知れないし、その場の空気で支配されたところもあるでしょうけれど、ああいう冷い固いその人のその芯を貫いているような人生態度は、一朝一夕のものでなくて、矢張り女が昔から金で支配され得るものであった社会関係をいまは女が自分の方から強面《こわもて》に男に差向けてゆく、そう云う関係が露骨に出ていると思います。昔、金持ちや身分のいい若い息子がお小間使いから始まりいろいろな女に、遊びとしての交渉をもって行き、しかし身をかためるという意味の結婚では、その家と釣合った自分の社会的な体面の玄関口と釣合った娘さんと結婚することが、不思議でなかったし、そのことは今日もあります。同じような境遇のある種の娘さんたちは、遊びとしての恋愛と結婚とをそう云う男たちに似た考え方で考えているようなところもあるのじゃないでしょうか。しかも女の人の場合は社会が男に対するとは違うから、実行が男ほど大ぴらでないし、ある意味では突入っても行かないし、矢張り結婚して見れば、結婚以前のいろいろのことはその結婚生活をより豊富にしたり、真剣なものとする存在として受入れられないで、あり来たりな、蔭のことに堕してしまうのではないでしょうか。
 恋愛から、そのまま結婚にゆけない場合も、実際にはあります。それには複雑な理由があって決して一言に批難は出来ません。これまで人が自分達の生長の程度が客観的にどの程度まで行っているか見る力を持っていなくて、而かも一途に
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