努力の部分というのは、その中で多くの部分が予定されているのです。今日の実際の恋愛という風なものは、そう云うものだと思う。その点を何か勘違いしている場合が多いと思いますが、どうでしょう。経済的な目というものを、結婚や恋愛の場合女の側から男にだけ求めるものとして女に考えられている場合があるし、ひどいのになると、結婚は人生の事務であると云うような理屈づけで、恋愛の場合は男の人が、お茶代や映画を見物する費用、ハイキングに行くこと位出来れば辛棒しているが、結婚となるとすっかりその標準を高くし、どうせ結婚するなら生活の安定が無くちゃねえと云うようなことを当然と考えている人もなくはないらしい。
またね、さっきの女優さんのことになってお気毒ですが、ああいう一見無邪気に人を噴き出させるような表現の中に、なんという深い生活の垢みたいなものが満ちているでしょう。女優さんと云う職業の関係もあるかも知れないし、その場の空気で支配されたところもあるでしょうけれど、ああいう冷い固いその人のその芯を貫いているような人生態度は、一朝一夕のものでなくて、矢張り女が昔から金で支配され得るものであった社会関係をいまは女が自分の方から強面《こわもて》に男に差向けてゆく、そう云う関係が露骨に出ていると思います。昔、金持ちや身分のいい若い息子がお小間使いから始まりいろいろな女に、遊びとしての交渉をもって行き、しかし身をかためるという意味の結婚では、その家と釣合った自分の社会的な体面の玄関口と釣合った娘さんと結婚することが、不思議でなかったし、そのことは今日もあります。同じような境遇のある種の娘さんたちは、遊びとしての恋愛と結婚とをそう云う男たちに似た考え方で考えているようなところもあるのじゃないでしょうか。しかも女の人の場合は社会が男に対するとは違うから、実行が男ほど大ぴらでないし、ある意味では突入っても行かないし、矢張り結婚して見れば、結婚以前のいろいろのことはその結婚生活をより豊富にしたり、真剣なものとする存在として受入れられないで、あり来たりな、蔭のことに堕してしまうのではないでしょうか。
恋愛から、そのまま結婚にゆけない場合も、実際にはあります。それには複雑な理由があって決して一言に批難は出来ません。これまで人が自分達の生長の程度が客観的にどの程度まで行っているか見る力を持っていなくて、而かも一途に
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