ているのでしょうね。昔ね、菊池寛が「真珠夫人」という小説を書いて金の為めに人身犠牲《ひとみごくう》のような結婚をさせられた人の悲劇を書いてたことがあります。親の借金のかたに金持ちに嫁にやられるということで考えれば、恐らく十人のうち九人までそれを女として耐え難いことだと思うでしょうが、自分から結婚問題として考えて行ったとき恋愛はないけれども、生活には安定しているのだからという点で、リアリスティックに判断した積りで、それを拒《こ》ばまない気持というのは現代の半分自覚して半分自覚せず、その自覚しない半面では強く現実の中の打算に負けている女の心の動きかたを語っていると思います。
何時ぞや映画の若い女優さんの座談会があって、そこでは吉屋信子さんが司会していらしたのですが、若し好きな人が出来て、その人が貧乏だったらどうするでしょうと云う話が出ました。すると一人の活溌に話している女優さんが、「あたしは始から、そんな人好きにならないわ」と至極明快に断言しているのです。すると吉屋女史が、「ほんとうにお金の無い人との結婚はするものじゃありませんよ」というような意味のことを云っておられました。その応待を読むと思わず噴き出しますけれど、後で直ぐ何か厭やな気持がするのです。若い女の人が経済的な事情を抜きにして、恋愛を至上的なものに考えたり、そのように行動することそれ自身は悪いことでもなんでもないけれど、現実の今日の社会の中で、そう云う空想的な人間の結び付きは結局経済的なもので打毀《うちこわ》されたりするから、愛情のしっかりした成長のためには、その愛情が条件として持っている経済的条件をよく知って、建設的な方法を打ちたてて行かなくてはならないと云う意味でこそ、経済的な実際性が、女にも男にも求められるのです。金というものも現在では人間を支配するものとなっているから、金持ちの家庭ということは金を持っていることが善い悪いと云うのでなく、金を守らなくてはならない所からその家《うち》の人々の物の考え方も判断の仕方も行動の仕方も特徴がついてくる。それは避け難い現実ですからね。そう云う人間の生き方と、自分が求めている生き方とが、ぴったりするか、しないものかと云うところから選択の標準が出てくる訳です。
女と男とがお互いに交渉を持ってましなものにして行こうとするものとして、経済問題が出て来る。女の人の負うべき
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