女靴の跡
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)谺《こだま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)数|哩《マイル》へだたった

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三七年十一月〕
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 白いところに黒い大きい字でヴェルダンと書いたステーションへ降りた。あたりは実に森閑としていて、晩い秋のおだやかな小春日和のぬくもりが四辺の沈黙と白いステーションの建物とをつつんでいる。
 ステーション前のホテルのなかも物音がなくてカーテンのかげに喪服の婦人の姿があるばかりである。
 人通りというものも殆どない。明るい廃墟の市の午後の街上を疾走するのは我々をのせた自動車ぎりであった。ソンムとヴェルダンとはヨーロッパ大戦を通じて最も激しい犠牲の多かった北部フランスの古戦場なのである。
 ヴェルダン市の市役所のあったところ、大病院のあったところ、学校。それらは今日全くの廃跡である。いくらか残っている石の土台。迫持の柱。静かな秋の日ざしのなかにそれらのものが寂しくくっきりと立っていて、ぽかんとあいている天井のない窓のところに空はひとしお青く見えている。白地に黒で簡潔に市役所《オテル・ド・ヴィユ》と書いた札が立てられているのである。ほかに見物人もない廃墟の間を歩いていると、自分たちの声が遠いところまで反響してゆくのがわかる。
 もとの市中をぬけると、砲台のあったぐるりの山々までいかにも打ちひらいた眺望である。数|哩《マイル》へだたった山々はゆるやかな起伏をもってうっすりと、あったまった大気の中に連っているのであるが、昔山々と市街との間をつないでいた村落や田園は片影をとどめない。
 今日あるものは、満目の白い十字の墓標である。幾万をもって数えられるかと思う白い墓標は、その土の下に埋った若者たちがまだ兵卒の服を着て銃を肩に笑ったり、苦しんだりしていたとき、号令に従って整列したように、白い不動の低い林となって列から列へと並んでいる。襟《カラー》に真鍮の番号をつけられていたそのとおり、墓標にも第一に目につくように黒々と番号が記されてある。あたりには花も樹もない。何とも云えぬ悲しい清潔な白い十字の林を、フランスの芳醇な秋の空気がつつんでいるのである。
 自動車はスピードをもって山へ山へと疾走した。たった一
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