の大船小舟が船底をくさらせたり推進機に藻を生やしたりしているのはわかっていても、自分の小さい出来たもとの櫓《ろ》や羅針盤にたよりきれないような思いがする。
 ここに二人のひとがあって、一方は、所謂間違いのないという範囲で信用のある人物とする。もう一人は、時に意表に出たり、失敗したりもするかもしれないが、この人物のすることならよしんば失敗であったにしろ、決して卑劣卑小な動機から行動して失敗したりすることはあり得ない人物と思われているとする。かけられている信頼の度は二人のうちどちらがより深いだろう。こういう比較に示されれば私たちの判断は迷わない。言下にそれは後者だと云えると思う。そして、そのような信頼の源泉は、その人が常に自身の動きに対して責任を負っていて、その責任の態度がこの人生に向ってまともなものであるということから来ている点も理解される。
 自信も畢竟はそういうものではなかろうか。この複雑多岐で社会の事情万端数ヵ月のうちに大きく推移してゆくような時代に生き合わせて、受け身に只管《ひたすら》失敗のないよう、間違いないようとねがいつつ女の新しい一歩を歩み出そうとしたって、自身の未熟さを思えばそれは手も足もどこに向って伸してよいか分らないようになるのが当り前と思う。目の先三寸の功利的な見とおしと行動の自信とは決して同一のものと云えない。現代の若い世代は、自分とひととの人生にまともに面して、負うている責任の感情を自身にたしかめてみて、そこが肯定されればその誠意を自信のよりどころと思いきわめて生きるほかはないと思う。

 女のひとが人生への責任を自分から自分とひととの運命へ働きかけてゆく力として、どんなに感じているか。このことも、極めて微妙なことだと思う。いつぞや或る婦人のための雑誌で婦人と文化の問題についての座談会があった。文化的な仕事に才能を生きぬき、その向上のために献身するために、現在の日本の婦人はどんな社会的条件におかれていたかということが主として話題となった。日本では女のひとの立場は困難をどっさり負わされているという点が誰の注目をもひいて、語られていた。その座談会の記事への感想として、一人の女のひとが、男の理解を高めるということも大切ではあるが、日常には随分女自身無責任な生きかたをしていると思う点がある。そういうところも女として自省されるべきと思うという文章があっ
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