、常識追随である。
この判断ということは、いろいろ面白い。非常に生活的なもの、複雑なものということで面白い。私たちの生活の刻々が意識するしないにかかわらず判断の継続、累積であり、そこにこそ「時間は人間成長のための枠である」という意味ふかい表現の真実がこめられている。
今日のものを考え自分を考えて生きようとしている真面目な若い女のひとたちは、自分の判断というものに対してどんな態度をもっているのだろう。私はよく自信がなくて、というかこち言をきくので、そのことを考えさせられるわけである。自分なりひとなりの判断を肯定してそこに立ったとき、はじめて判断は現実のものとして存在するものだ。従って、判断とのかかわり合いに於て云えば、たといひとの判断に従う場合にさえやはりそこには従ってよいとするだけの自信が求められているのだと思う。
判断と自信とは生きかたのうちに一体のものとしてあらわれて来るのだが、一体私たちの日常で自信があるというのは、どういうことをさすのだろうか。
自信というのは、自分に向っての信用であるわけだが、それなら人間の信用とはどういうところにかかっているものだろう。信用というと、とかく間違いないという面でだけ内容づけられて来たのが旧套であったと思う。どこへおいても大丈夫なひと、そういう表現の与えられることもある。しかし、旧来そう云われる標準は、常識のどこに根拠をおいているかと考えると、自信がなくてと不安がっている若いひとも、時には互にくすりと眼くばせし合って、私これでなかなか信用があるのよ、と笑い合う経験はもっている。この罪のない可愛い諷刺は、おのずから昔風な信用への判断、それにつづく批判として溢れているものではなかろうか。自分たち若いものの活溌な真情にとって、人間評価のよりどころとは思えないような外面的なまたは形式上のことを、小心な善良な年長者たちはとやかく云う。けれどもねえ、そればかりじゃあないわねえ、その心だと思う。
ところが、いざ自分のその心の面に立って自分としての判断を現実にながめなければならない段になると、自信がなくて、ということになる。自分の判断に従って果して誤りはないか、大丈夫だろうか、そこが不安というわけで、一旦は否定してそこからはもう自分の生活感情が舟出してしまっている筈の女の歴史の旧《もと》の港をふりかえるのである。そこではどっさり
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