利を与えられたことの怒りだけに立って、その気持に自分をまかせ切っているのであった。
 そういう生活の感情をエゴイズムといわれればその娘さんは納得できまいと思う。何も自分が楽をしたいからだけ腹立てているのではない。そういう行為の無責任さが不愉快なのだというだろうと思う。それももっともではあるし、社会的にその若者が一つの無理な動きをしていることもわかる。けれども、若者の行為が無責任であることは十分明瞭に見ながらも、それによって非常に立腹する自分の心持のよって来る立場というものの作用をわきまえて、全体の人間関係のいきさつを、今日の世相の一つの姿として理解したら、その娘さんは自分を不快におとしいれた一波瀾から心持の上で何か豊富なものをえてもこられるのではなかったろうか。
 そのルポルタージュの文章に書かれていた若い娘さんの感情の中心の据えどころを思いまわすと、私には、女は自分中心、といい古された言葉が浮んで、やはりそこに連関しているものがあるのを感じるのである。
 妻の良人への情愛、それから母の子への愛。そういう愛情は日本の社会でいわば公認の愛の局面であるが、自分に向けられる母の愛、気づかい、心配などを、有難いとともに漠然負担に感じないで暮している娘さんたちが今日はたして何人あるだろうか。日本の女の自己犠牲の深さということを一方においてみると、女は自分中心だということが矛盾しているようでもあるが、自己中心ということが、つまりは女が社会的に自分の心、ひとの心を見て感じてゆく力の弱さから来ていることを理解すれば、自己犠牲の深さもその裏がえった一つのものとしてのつながりをとらえることができるのだと思う。これまで女が経て来た自分を殺した生きかたに、女は全く満足しきって朗らかであるのだろうか。けっして本心はそうではない。自分のささげた犠牲を十分胸にたたみこんでいて、そのねうちを評価していて、それについて語ることのできる場面におかれれば、自分にとって最も熱情のわき立つ話題として、自分を殺して生きて来たその筋道について語るだろう。そういうとき、自分の犠牲が、社会的にはどんな条件からおこったものかということは顧みられず、常に自分の一生としての範囲で語られるのである。
 若い婦人たちの社会生活は、今日どんどんひろげられている。女性総体としての社会的経験が急速に多様になり、複雑になって来ている
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