それは、暇な時には、随分想像を逞しくして、あんな家、此麼《こんな》家と、考えを廻します。又、何かで肝癪が起り、周囲の物音や、風で吹込む塵までひどく気になるような時は、どんなにでもして、独りで、じっと納っていられる部屋が欲しいと熱求します。
 けれども、真個に、部屋なら部屋、机なら机を有効に用っている時――仕事の出来る時――は、まるで家のことなどは忘れ切り結局、その為に、あくせくすることは無くなって仕舞います。
 なかなか家などは建てられませんでしょう。少し考えれば、建てられても自分の所有のためには建てないかも知れない。
 私は、何も、「自分のもの」とする必要は些も感じていないのですから、金持の土地のある人が、もう少し心持よい貸家を、安全な、リーゾナブルな条件の下に貸して下されば死ぬまで其処にいます。
 何でも物が、あまり端的な売買関係にあると、全く人間的感興の欠けたものとなって仕舞う通り、「家」と云うものに対する我々の心持も、あまり、コムマアシャリズムに堕したくないものと思います。
 家を建てさせる丈の金はある。さあ、と云って、商売人にまかせたきりでは、誰でも不満を覚えましょう。自分で種々考えている。相談をする。プランを種々に引いて見る。そして、やっと出来上るから、仮令、一つの石を自分で運んだのではなくても、「我が家」と云う心的の繋が出来るのです。若し、真個に家につながる各々の心、記憶愛と云うものを感じ、尊むとすれば、現代の、多くの人々が新たな家に対すより、或は、もう少し濃やかな、深いものが必要なのではないでしょうか。家の、大体の建築を自分でする等と云う事は、不可能と知れていますが、少くとも、庭園に対する注意、室内装飾の或る部分は、家を営む者達の手――心でどうかなると思われます。
 植木屋を手伝い、男――良人や男の子等は、花壇作り樹木の植つけ等を、分に応じて助力する。母親や娘は、彼女等の手芸、刺繍、パッチ・ウワーク等を応用して、暇々に、新たな壁紙に似合う垂帳、クッション、足台等を拵える。
 公共建築や宮殿のようなものは例外として、中流の、先ず心の楽しさを得たい為に、居心地よい家を作ろうとするような者は、此位の共力が、決して不当なものではあるまいと思います。新らしい家と云うものが、ちっとも、贅沢な、フリーボラスな気分を醸さず、素朴な、自分等各々の献物によって形造ら
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