まいとするのだ。
*
ああ、われは
献納の香炉。
ささやかな火は絶えず
立ちのぼる煙は やまねど
行くかたを知らず 流れ行く途も弁えない。
若しわが献げられた身を
神がよみし給うなら
寂漠の瞬間《とき》
冲る香煙の頂を
美しい衛星に飾られた
一つの星まで のぼらせ給え。
燦らんとした天の耀きは
わが 一筋の思 薄き紫の煙を徹して
あわれ、わたしの心を盪《とろ》かせよう
恍惚と
六月二十二日
淋しい日々の生活――
あわれな 我良人は
蒼い顔をし 黙り
神経質に パタパタと手づくりの活字を押す。
私は、
笑うすべもなく
楽しい言葉のかけようもなく
ともに黙し 物を思う。
ああ 淋しい生活!
昔、娘であったとき
彼を恋わぬ前
自分は
このように寥しい生活が
此世にあると思っただろうか。
何が、貴方の心をそんなに閉すのか
どうぞ さっぱりと云っては下さらぬか
云い知れぬ不満や不快が
家に満ち 我心をくい
なやませる。
私は、楽しい晴々した生活がしたい。
我心に満ちる愛やまごころを思えば
それの与えられぬのが不思議に思う。
彼と云う、我ただ一人の愛しい人は
私に、ひたすら、涙を流させるために
私の前に現れたのか
涙
ながれちるわが涙
どこにそそごう――
私の愛す人の胸は遠くかたく
涙にとけるとも思えない。
ああ わが涙――
歎くまい。私はひとりささやかな
我芸術の花園に
此 水のしずくを送ろう。
土が柔らかなら花床よ
私の涙をしっとりと吸い
優い芽をめぐませて呉れ
花も咲くように――
涙はあまり からくないか。――
*
彼ゆえに
幾千度
ながす わが涙ぞ。
なまじいに
逢わざらましを。
七月十二日
夕暮五時の斜光《ひかり》
静かに 原稿紙の上におちて
わが 心を誘う。――
純白な紙、やさしい点線のケイの中に
何を書かせようと希うのか
深みゆく思い、快よき智の膨張
私は 新らしい仕事にかかる前
愉しい 心ときめく醗酵の時にある。
一旦 心の扉が開いたら
此上に
私の創る世界が湧上ろう。
一滴 一滴
水の雫が金剛石《ダイアモンド》の噴水を作るように
一字一字
我書く文字の間《ひま》から
生き、泣き、笑い、時代を包む人生が
読者の胸に迫るのだ。
ほの白い原稿紙
午後五時のひかり
暫く その意味深い空虚のままに居れ。
やがて お前等は
繰れど、繰れど
つきぬ 人類の喜怒に
愕き 畏れて 静かなケイを震わせる時が来るだろう。
八月三十日
不図 軌道を脱れた 星一つ
宏い 秋の空間を横切って
墜ちた。
何処へ行くのか――
自然は息をひそめ
その青白き発光体の尾を凝視《みまも》る。
何処へ落ちようと云うのか――
私は 知って居る。
自ら わが心の流れよる
かの遠い 遠い 樹林の蔭に
青春の
落ちた 星はあるのだ。
パンよ!
パンよ! パンよ!
快活な古代のパン!
どうぞ お前の愉快な 牧笛で
わが 胸を浄めて呉れ
この寂しい微笑を忘れさせて呉れ
一生の恋 わが愛
わが愛はあわれな〔五字分空白〕となる。
憤りもし得ず、わが痴かな恋人の面影も 忘れ得ず
身を喰う苦しさが
しんしんと魂にしみ入るのだ。
ああ 昔の無心が欲し
(十八歳の理性!)
あの 雲のない 空が恋し
パンよ、パンよ
お前の笛の音によって
私の若さは還らないか。
きらめく 五月の光は戻らないか。
*
わが ひと
貴方は 今 何をして居ます
都会から数百里
淋しい田園の裡にあっても
貴方の、面影は わが心の前に立ち
動作が、ありありと眼に写ります。
やや古びた八畳
大きな机や 水鉢の金魚
貴方は白い浴衣を着
今は書籍の前に
今は 縁に
又は水を打った庭樹の面を
いかにも東洋人の安易さを以て
ひっそりと打眺めて居られるでしょう。
遠く離れ
心では 又と会うまいと知りつつ
静かに 面影を描く
私の心が わかりますか。
一度《ひとたび》、わが良人と呼べば
縁は深く 絆は断ち難い
ただ一人の女として 私はどれ程
男たる貴方に恋着するだろう。
打ち顫える抱擁と
思い入った瞳を思い起せば
私は 心もなえ
獣となって 此深い
驚異すべき情に浸りたいとさえ思う。
けれども
わが ひとよ!
わが ひとよ!
ああ 貴方は。――
神よ。
私は
授けられた貴方 命を
懼《おそ》れ畏こみ従おうとしつつも
わが胸の苦しみを
殆ど耐え難く思います。
*
何と云う 哀愁!
八月の空には雲が多く
白く金色に 又紫に輝いて
地に 穀物は実り たわわなれど
ああ 何と云う哀愁!
心 堪え難く痛み
耀きも 色彩も
その悦びを忘れ果たようだ。
嘗て わた
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