十年の思い出
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九二六年八月〕
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 文芸のような無限の仕事をするものにとって、十年という月日は決して長いものではありません、考えように依ってはほんの僅かな一瞬間に過ぎないのに。そればかりのことをいかにも大そうらしく、十年の思い出などといわれることが私はほんとに嫌いです。それに私は文壇というようなことを、余り意識に置いておりませんし、一時かなり長く仕事から遠ざかっていましたから、格好なことは何にもないのです。
 私は幼い時分から、本を読むことや、ものを書くことが好きだったので、今のように専心文学をやることになった初めも、いつの間にか自分の好きな道へ進んできたというだけのことで、一度志を立てて、などいうことは少しもないのです。ですから、どういう気もなく随分早くから書いたものも相当沢山ありました。そのうちから処女作として発表されたのがあの「貧しき人々の群」でした。私が未だ女学校にいる時に書いたもので、何といっても十八の少女でしたから、自分には何が何だか、唯夢中で書いた、いわば子供の自由画と同じことなのです。勿論、子供ですからいわゆる心境物なんてことはあり得ませんし、材料は自分が見聞きしたことを色々集めて、それを克明に書いただけのものでした。これが大正五年の『中央公論』で、引つづいてぽつぽつ外国へ行くまでに六つ位発表したと思います。どれもなかり枚数の多いもので、殆んど『中央公論』が主でしたが、中には『東京日日新聞』に載せた「三郎爺」などというのもありました。
「三郎爺」は軽いユーモアの味を持たせようとして、それがちっとも現れていないようなところがあって、処女作と一緒に今でも思い出して、何だか可愛らしい気がします。
 それからたしか大正八年に米国へ行ったのでした。行く時は父や、父の知人と一緒でしたが、向うへ着いてからは一人残って寄宿舎へ入りました。そして、見たり聞いたり、遊んでばかりいて、勉強なんて少しもしませんでした。あちらにはまる一年位いただけですが、それからずっと、日本へ帰ってからも、全体で四五年は仕事らしいこともしませんでした。別段怠けていたというのではありませんが、家庭を持つと、女の人はどうしても、生活が二つに分かれることはまぬが
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