になっているのである。
 面長な、やや寥しい表情を湛えた彼が、二階の隅の、屋根の草ほか見えない小部屋に坐っているのを一覧し、自分は、彼の日本観を不安に感じた。
 柔い色のオール・バックの髪や、芸術観賞家らしい眼付が、雑然とした宿屋の周囲と、如何にも不調和に見えたのである。始め、彼はAを思い出さないように見えた。何となく知ろうと努め、一方用心しているように感ぜられ、自分の私《ひそ》かな期待を裏切って、初対面らしい圧苦しさが漂った。彼の妻で、知名なダンサーであるラタン・デビーのことなどをきいているところへ、女中が名刺を取次ぎ、一人の客を案内して来た。その顔を何心なく見、“Glad to see you”と云いながら、自分は思いがけない心地がした。
 この人は、先赤門の傍で見た男ではないか!
 印度人のクマラスワミーに会いに来るからには、この人も同国の生れであろう。クマラスワミーは、簡単に、外国語学校で教えている同国人で、アタール氏だと紹介してくれた。
 暫く話してから、西日の照る往来に出、間もなく、自分は、アタールという名を忘却した。
 それから、クマラスワミーとは友情が次第に濃やかになり、十月頃彼が帰るまで、我々は、ヨネ・野口をおいては親しい仲間として暮した。種々な恋愛問題なども、率直に打明けられるほどであった。然し、アタール氏とはこのまま会う機会もなく、殆ど忘れ切って過していたのが、突然、自殺の報道とともにのった写真で、その時の彼をリコグナイズしたのであった。その刹那に、自分は、狭い部屋に窮屈そうに横坐りに坐って、日本語は少し役に立つが、文字と来たら、怪物のようにむずかしいと、ぎごちなく話した彼の姿や顔を、涙ぐむ程、はっきり思い起した。――



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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