ら、小使が閂を抜いてさっと大門を打ち開くのを今か今かと、群れて待ち焦れている心持は、顧みて今、始めていとしさが分る。
いよいよ時間が来、小使の一人が、ぱらりと手拭でも肩にかけながら此方に向って出て来ると、私共は亢奮し、犇き合って扉の際まで詰めよせるのが常であった。恐ろしい緊張が皆を支配する。やがて、一尺か二尺、二枚の扉に隙が出来る。と、誰かが勇者の勢でそこから内に辷り込む。どっという笑声や喝采。あとから、あとから。ちゃんと門が開き切った時分には、恐らく誰一人往来に立って待ってはいないだろう。
入ってしまえばもう安心し、砂利の上で肱を張り張り歩いて左の方に行く。――
女の下駄箱は正面の左手にあり、男のは右手の方にあって、そこを抜けては小使が教室の用事を足した。両方ともが狭く、薄暗く、雨の日や冬は、寒い位ひやひやした。丁度、図書館の書物蔵のように、高くまで大きな箱が幾通りにも立ち、バタン、バタンと賑に落ちる蓋つきの小さい区切りが、幾十となく、名札をつけて並んでいるのである。
下のタタキに下駄の音をさせてその間に入り、塵くさいような、悪戯のような匂いを嗅ぎながら、柔かくなった麻裏を、ペタンと落して穿きかえる気持は、今もなお鮮に心の裡に遺っている。健康な、多勢な、まだ眠っている活気を、そこで第一に吸い込むのである。
考えて見ると、あの時分の小学生は、今の子供達とは随分異っていたものだと思う。こんなに靴を穿いている者はいなかった。皆、草履袋を下げ、それを振廻したり、喧嘩の道具に使ったりしながら、男の子でも下駄か、皮草履を穿いて通学した。いつもいつも靴を穿いているのは、きっと、級の中でも気取屋に属していたような有様なのである。
それで、今書きながらも念い出しておかしいのは、私の一級下に、或る金持の、痩せて特徴のある表情をした令嬢がいた。その人は、いつでも靴を穿いている。而も、その靴が、子供らしい尨犬《むくいぬ》のようなのではなく、細く、踵がきっと高く、まるで貴婦人の履き料のような華奢な形のものなのである。
十二三の女の子の眼を瞠らせずには置かない。私は、驚いたり、羨しかったりで、熱心に眺めた。ところが、どうしたのか前の方の形は実に素晴らしいのに、後で見ると、踵がまるで曲って内側に減り込んでいる。形が、子供の運動には余り不適当なので、あんなに歪んでしまったのだろう。それ故、歩くのが平らかに行かない。どうしても、きく、きく、と足が捩くれる。きくり、とする度に、ぴったりと形に適った鞣皮をぱんぱんにして、踝が突出る。けれども、その位の年頃の女の子はおかしいもので、きく、きく、しながらそのひとは一向かまわず、而も得意で廊下や段々を昇り降りする。私は日向の廊下に腰をかけ、空の乾いた傘棚に肱をもたせながら、思い極まった顔をしてその後姿を眺める。天気のよい日、磨かれた靴が特に光り、日を照り返して捩くれるのを見ると、私の心は云いようもなく重く悲しく、当のない憤懣を感じずにはいられないのである。――思うと笑わずにはいられない。
先生や友達の個人的な思い出は抜き、次に印象深いのは、お昼休み前後の光景である。
想っただけで、私の前には、あの輝く空と、波のように砂利を踏む無数の足音、日を吸って白く暖い廊下、笑声、叫ぶ声が聞えて来る。御弁当を持たず、家が近所の人は帰るので、教室から出て来たばかりの時は、まだまだ運動場はからりとしている。小さい女の子はお手玉をとりとり大きな声で謡をつけ、大きい女の子は、廊下の気持よい隅や段々の傍で、喋り笑い、ちょいと巫山戯《ふざけ》て、追いかけっこをする。けれども、だんだん子供が帰って来、入り乱れる足音、馳ける廊下の轟きが増し、長い休の中頃になろうものなら、何と云おうか、学校中はまるで悦ぶ子供で満ち溢れてしまう。
四十分か五十分の日中のお休みは、何といいものであったろう! 鐘が鳴るのに、まだ、まだ時間はあるというくつろぎ、云い難い甘美がある。朝は薄寒いようで、賑やかでも引緊った空気は、昇る太陽につれて膨み機嫌よくなって来る。手に触り体が触れるあらゆる建物の部分は、幸福に乾いてぽかぽかしている。見えない運動場の隅から響いて来るときの声、すぐ目の前で、
「おーひとおぬけ、おーふたおぬけ、ぬけた、ちょんきり、おじゃみさーあくら」
と調子をつけて唱う声々の錯綜。――
その声と光に包まれながら、自分が廊下をゆっくり、ゆっくり歩いて行く。大人のような気になり、前後左右のものを観察し、その心持を感じ、悦びは感じながらも手持ち無沙汰な有様で歩いて行く。メリンスの、雲と菊の模様のある羽織を着、処々色の褪めた紫紺の袴を穿いた自分の様子は、どんな風にその場合見えただろう。鍵の手に曲った廊下を行くと、突当りの一寸左に、弟の教室があった。
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