書院より戯曲集『女人哀詞』を出版。『風』なお継続。三月末完結の予定。」その後、「女の一生」「真実一路」につづいて目下「路傍の石」が東西両朝日新聞に連載中である。
さて、この自伝の概略から、読者はどういう感銘を得るであろう。ここには、一人のなかなか人生にくい下る粘りをもった、負けじ魂のつよい、浮世の波浪に対して足を踏張って行く男の姿がある。自分の努力で、社会に正当であると認められた努力によってかち得たものは、決して理由なくそれを外部から侵害されることを許さない男の姿がある。人生の路上で受けた日常の恩を忘れず記載し、又人生の路上で受けた不当な軽蔑や無視については生涯それを忘却することの出来ない執拗な人間性の姿がある。高をくくって軽く動かそうとされると、猛然癇を立てるけれども、所謂情理をつくして折入ってこちらの面目をも立てた形で懇談されると、そこを押し切る気が挫ける律気で常識的な市民の俤が髣髴としている。五十年の生涯には沢山の口惜しい涙、傷けられた負けじ根性を通じての、自己の存在の主張がなされた。『生きとし生けるもの』の序でこの作者が「どんな形をしていようとも、この世に生を享けているものは、必ず何等かの意味に於て、太陽に向って手を延していないものはないと思います。」と云っている言葉には、不如意な境遇と闘ってこの矛盾の多い社会に自分の名札のかかった生存席を占めるために音のない、しかし恐しい競争を経験したものの感慨がこめられているのである。
山本有三氏は、斯様にして獲得された今日の彼としての成功に至る迄の人生の経験から、次第に一つのはっきりとした彼の芸術の脊髄的テーマとでも云うべきものを掴んで来ているように見える。それは、予備条件として在来の社会機構から生じた各個人間の極く平俗な生存競争の必然を認めつつ、だが、窮極のところ、人生の意義というものは、人間対人間の目前の勝敗にあるのではない、「持って生れたものを誤らないように進めてゆく、それが修業」であり、そのためになすべきこと[#「なすべきこと」に傍点]を只管《ひたすら》にやって行く人間の誠意、義務、試み、感激の裡にこそ人生の価値がかくされている、という一貫したモラルである。「熊谷蓮生坊」という戯曲は、この作者の脚本として決して優れたものではないが、以上のようなこの作者の人生及び芸術的骨格を全く透きとおしに浮上らせている意味で、見落せない性質をもっている。山本有三氏は、この根幹をなす生涯のテーマから出立して、更にその人間としてなすべきこと[#「なすべきこと」に傍点]の内容と経過とその帰結とを小工場主、小学校、中学校、大学等の教師、下級中級サラリーマン、勤労婦人の日常葛藤の裡に究求し描き出そうとする。戯曲において、題材は時に神話に溯《さかのぼ》り、封建の武人生活に戻り、西郷南洲からお吉に迄拡がるが、根本の課題は常に変らない。そして登場する人物、配役も、少くとも「津村教授」から「真実一路」に至る間は、小説と戯曲とでいくらかの違いこそあれ、これも些か注意ぶかい読者ならば、おのずから心づかずにはいられない反復をもって、良人以外の男と恋愛的交渉のあった妻、ある妻。その女に対して、人間として為すべき道義の自覚から行動する男。それに母のない息子、ひがんだ息子、希望されずに生れた子、血の信じられない子等が絡んで、なすべきこと[#「なすべきこと」に傍点]の諸ヴァリエーションが奏せられているのである。
山本有三氏の文章が、平明であろうという特徴は、この作者のねうちの一つとして既に十分評価されている。もう一歩迫って、文学的に見ると、この作者の持つ文章の平明さは、鮮明な描写によって読者の心にひき起される立体的な溌剌たる形象の鮮やかさではなくて、懇切に作者の思惑を読者に向って説き聞かせる説明的文章の納得し易さである。文学的な香気というものはまことに乏しい。けれども、作者がその人物に云わそうと意図している範囲では噛んでふくめるように云っているから、分り易い。平明であるというねうち高い特長とともに、この作者の持ち出す人間の言葉にも、人間そのものにさえ性格的な色調というものは極めて薄い。それぞれの人物が、現実の中から生のまま切りとられて来ていて、時には作者をうちまかすと思われる肉体的、感覚的な動きを示すのとは全く反対に、各人物は、作者山本有三が編み立てた事情を展開してゆくための説明として、裏漉しを通して、私共読者の前に出され、ものを云い、動くのである。そして、仔細に作品の現実に入ってながめると、この作家が作品の主調として主観的に提出しているこの人生におけるある道義、正義、誠意というものの実質が、もし真実この社会に要求されているならば、当然その可能のために作者がよく云うとおり、望む望まないに拘らず承認され、評価されなければならない社会の客観的な正義、道義というものと、案外にも喰い違った大小の歯車となって廻転していることを発見するのである。
この作者の有名な長篇小説に「女の一生」というのがある。今から四年ばかり前、丁度日本では左翼の全運動が歴史的退潮を余儀なくされるに至ったはじまり頃の作である。
本屋へ行って、「女の一生」とだけ云ってたずねれば、店員はモウパッサンの「女の一生」を持ち出して来るのである。が、この傑作と同じ題をつけたところにこそ、作者山本氏の意気の高いものがあったと思われる。モウパッサンの描いた女の一生ではない女の一生を山本氏は私たちに示そうとしたことは自明である。フランスの旧教の尼僧教育にとじこめられて、白く脆い一輪の無垢な花弁のような貴族の娘が、結婚の第一日から良人に欺かれ、やがて息子にすてられ、悲惨にこの世を終った。そういう受け身な一生ではなく、女が自分から自分の道を選び、それに責任をもち、人間として女として完成しようとする女の計画あり意志ある一生を允《まさ》子の生きかたで語ろうとした作である。
幼な馴染で好もしく思っている男を親友が愛人としてしまったことから、允子は深く苦しむが、年頃の女には、結婚の外には生活がないように考える世間の習慣に批判をもち、結婚というものも「せいぜい生きて行く上の一事件ぐらいにしか考えていない」という気持に立ち直り、允子は兄の結婚を動機に、医学の勉強をはじめる。允子は自分を一本の牛乳瓶にたとえ、それが一寸した心の動乱で「ひっくりかえらないようにするためには下に重い金の枠をはめる必要がある。むずかしい学問は、むずかしい職業は、いわば重たい金の枠だ。そういう基礎がおかれてこそ、はじめて瓶は一本立ちが出来るのだ」と考える。
必ずしも全面的に納得は出来ないこういう動機で医学生になった允子は、その専門学校を卒業する近くから、ひどく生活の空虚感、乾燥に苦しむようになり、再び一つの疑問が彼女の前に現れた。「こういう汚い仕事をする人がなかったら学術は進歩しないわけだけれど、しかし自分のような女までがこういうことをやる必要があるだろうか。」男にだって出来るこういうことでなく女なら――女でなくっては出来ないという仕事は――それは何だろう。危っかしい自分に重い枠をかけるのが目的で、むずかしい[#「むずかしい」に傍点]学問である医学を選んだ允子の、今懐疑的になって来た心の目に、自分の幼馴染との間に生れた子をおんぶした嘗ての親友の若い母としての姿が浮ぶ。そして「高等な学術を研究している自分の方こそ断然弓子に勝っているものと今まで自負していたのだが、允子はたちまち奈落に墜落したような気持になった。」実に執拗に意識されている作者の勝敗感と、「女は男あっての女で」あるというこの作者の動かぬ婦人観が、ここにくっきりと刻されている。
允子は、こういう内的情態で、公荘というドイツ語教師と結びつく。急に進んだこの交渉は允子に何か不安を抱かせるのであるけれども、彼女は「相手が性のしれない人なら別の話だ。地位もなく、人格もないような男なら、それはもちろん考えなくてはいけない。併し相手は大学を出た人だ。高等学校の講師だ。」というよりどころで安心する。允子が自分の姙娠を知って正式の結婚を求めるが公荘は、允子には話さなかった病妻が在り、堕胎をせまる。允子はそれを強く拒絶する。「国法を犯すことがこわいというより、胎内に芽《めぐ》んだものを枯らしてしまうことが恐しいのだ。」「どうにか育てられるものなら、そのために、よし自分は屈辱を受けようとも、生れいずるものは生れさせなければいけない」そして、允子は私生子として第一の出産を行うのである。生れた男の子は允男と命名された。「允男! 允男」「允子に取っては何よりも允男である。」やがて公荘の妻が病死し、允子は失職する。子供を抱えた生活が脅かされはじめ、允子は「結局女に残された一番万全な職業といったら細君業の外にはないのだろうか。これなら一生食いそこないはないのだ」と、細君を失くした医者の後妻の縁談までを、一旦ことわりつつ「あんなに急にことわることはなかったのかもしれない。」とさえ思う。「しかし、もし結婚するのならそんな知らない人よりも……」気心も分っている公荘と、「前のことなんかすっかり水に流して」夫婦になってもよいと思うのである。
公荘と家庭をもった後も医者として勤めに出ていた允子は、やがて子供の教育には、母が家にいなければならないことを知り、勤めをやめる。「パパとママとどっちがいいと聞かれたので、どっちもいいと答えけるかな」子煩悩な両親と一人息子の生活は、作者の根気よい筆で、子供の探求心の問題、性教育の問題にまで殆ど育児教科書のように触れて行っている。
今や允男は、青年となった。允男を高等二年生にした二十年の歳月は、公荘と允子との生活をもいつしかかえ、彼等は郊外に木造の小じんまりした洋館を新築した。「家は出来るし、生活の不安はないし、允男の成績はいいし、一家は和平に満ちていた。」
然し、時代は、允子が允男に風邪をひかすまいとばかり心をくばって生きて来る間に、風波の高いものとなって来ている。公荘夫婦は、允男のかえりがおそくでもあると「まさかそんなことはないと思うけれど」「一つの流行《はやり》だからな」と息子が赤になることを警戒し、息子の書斎をしらべたりする。ハイネの「アッタ・トロル」を「読んでいるようだと、よほど注意しなくちゃいけませんね」「もちろんだ、うっちゃっておいたらそれこそ大変だ。」こういう警戒にもかかわらず、「己は赤の方の心配さえなければ外に心配はないよ」と云う将にその心配が落ちかかって来て、息子はつかまる。允子は警察で息子に会い、父親の地位の危くなることや息子の親友の一人の名を発表したりして、允男を泣き落そうとする。
釈放されて来た允男は允子にゴーリキイの「母」などを読まそうとするのであるが、允子の考えは、允子は「生活や教養が違っているから」「息子をとっつらまえる方が間違っているんだと、そう単純には思いこめず」パーウェルの母とは逆に「向《むき》になっている息子をしずめることこそ、現在のような事情の下にあってはむしろ母親のつとめだ」という考えを固執している。
允男は遂に家を出てしまった。公荘は悲歎の裡に死ぬ。允子は不安の絶えないその後の生活の或る日映画の「丘を越えて」を見物して、心機一転した。允子は「丘を越えて」の母親の生きかたの不甲斐なさに刺戟され「女は年をとると子供の外に何もないのがいけないのじゃないでしょうか」「母親は丘を越えて養老院へはいることじゃなくて、もっと大事な丘を越えなくちゃいけない」「女には二つの出産がある。肉体的の出産ともう一つの出産が。肉体的の出産によって女は母になる。そしてもう一つの出産によって母親は人間になるのだ。」允子はそれによって「子は社会に生れ、母は社会に生きるのだ」ということに思い至る。そして、長い苦しみの中から初めて光を認め、また元の仕事をやって行く決心をする。「波」「風」等に比べて、遙かに意慾的なこの作品は、或る労働者の赤坊をとりあげてやった女医である允子が快く早朝のラジオ体操の掛声をきくところ
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