生の母である。やはり、生活に不安はない家庭の母である。息子がひっぱられたりすることは元より嫌いで、ひそかに息子がそういうことにならないためには大いに努力している小市民的な母ではあるが、避け難いことが起ろうとする前夜、彼女は出てゆく息子に、色のない唇でわずかに囁いた――「さむくなるから――かぜひかないでね。――母さんは。母さんは。――」と。これは断々《きれぎれ》な、とり乱した言葉である。が、切られない愛で息子の心中にある何ものかの横へまでこの母は思わず擦りよって行っているのである。
「波」の中にある言葉に従えば、山本有三氏はこの社会というきたない大溝へ、せめて清水を流し込もうとしている一人の作者だと思う。この作家を愛する読者は、それらの読者に愛されている全くその原因から、この作者の特質である人生的テーマが、現代の複雑な情勢の間で、今日或る危機に近づいていることを敏感に知らなければならない。「生命の冠」などに、世俗的悲惨をのりこえるに堪える高い意気をもって表現されていた人間としてなすべきことを為す気魄は「女の一生」に於て少なからず紛糾し、明らかな方向を示し得ない形で出された。「真実一路」に到って、この作者の核心を画すテーマの曲線は充実した力を失っている。「真実一路」の守川義平が、なすべきこととした生きかたの内容は、その主観的な考えかたで、「生命の冠」の有村恒太郎の行為より遙に社会性が尠く、貧弱化した。「真実一路」のこの主人公は、生涯の終りに当って、為すべきと信じてしたことが、現実には誤りの連りであったことを告白し得るのみであった。従来の生きかたが誤りであったことを自覚したとき、更に誤りを重ねまい為には破局をも忍んだ「津村教授」の熱意はない。この作品で、作者が「或意味では幸福な人」としている睦子の生涯というものも、誤った人生の発足から虚無的な生活破綻に陥り、只その壊滅を惚れた男と共に出来たというところに、僅に或る意味での幸福がかけられているのである。
今、東西朝日に「路傍の石」が連載されているが、山本有三氏が、どんな新しい意力と用意とでもって、今日の彼の読者の胸底に疼いている如何に生くべきかという問いに答えて行くであろうかと興味を覚える。人及び芸術家としての幸福とは、果してどういうところに在るものであろうか。特に、「真理を愛し真実の生活をいとなむ」ことと「社会の中枢にた
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