あとの「あたけかた」はひどかったのだそうだ。
或るとき、何でも行った年の暮れ頃らしい。いやな本に、気が鬱していた彼は、日向のぽかぽかする本堂の縁側に腰をかけて、両足をぶらぶら振りながら、相手欲しそうにあたりを眺めまわしていた。和尚さんが留守なので、納所《なっしょ》の方もひっそり閑として、どこかで寺男の藁を打つ音が、木魚のように聞える。
ときどき思い出したように洟《はな》を啜り上げながら、当もなくさまよっていた彼の眼は、やがてフトかなたの鐘楼の中に、大きな体をのっしりと下っている、鐘の上に吸いつけられた。
まだ子供だった彼に、鐘楼は禁断の場所であった。火事か、異変のあったときででもなければ、刻限以外の鐘は撞《つ》かないことになっていた時分のことであるから、いくら可愛がっている三郎坊主にも、鐘だけは触らせなかったのである。
その、禁制の鐘を見ながら、やや暫く首を捻っていた彼は、何と思ったのか急にそわそわしだすと、堪らなそうに首をすくめてほくそ笑むなり、どこへか駆け出した。そして瞬く間に六七人の仲間を引きつれて来ると、一人が納屋から古俵を持ち出す、他の者が細引きを引きずり出す、枯木を集めるもの、火打石をさがすもの、見る見るうちに、何だかものものしい仕度が出来上った。
すると、皆が丸くなって「じゃんけん」をする、負けた一人が、本堂傍の梁へ吊るした古俵の中へゴソゴソと這い込むと、庭で枯木へ火をつけた一人が真剣な声を張りあげて、
「火事だぞーッ、火事あおっぱじまったぞー!」
と、いきなり怒鳴り始めた。
すると梁から下った俵の傍らに、和尚の杖の折れを握って立っていたのが、荘重な手つきで古俵を突く。
一つ突くとゴーンと鳴る。
二つ突つけば、ゴーンゴーンと二つ鳴り渡る。
三郎坊主の発議で、皆な火事の真似を始めたのである。もう五十何年かの昔、奥州の山中に火事などはめったにない。中には、火事がどんなものだか知らなかった子供さえいるのだから、これには皆な有頂天になった。そして、傍から燃火をドンドン加えながら、盛に、
「火事あ、おっぱじまったぞーッ、ゴーンゴーン」
を繰返す。そして幾度鳴ったら、交代するという約束で、ちょうど三郎坊主が、鐘になったときである。
そこへひょいと和尚が帰って来た。
四
皆はもう、すっかり面喰ってしまった。そして、我がちに逃げてしまったけれども、俵に詰って梁から下っている三郎坊主は、藁一重外に、そんなことが起ったとは夢にも知らない。
暗闇の中に眼を光らせ、耳をすませて、突かれるのを待っている。こちらでは、和尚さんが、妙な顔をして、宙に下っている大俵を見た。彼には、一向訳が分らない。何のために俵が下っているのか、中がどんな様子になっているのか、人の好い和尚さんは少からず不気味だったに違いない。とう見、こう見していた彼は、やがて子供に返ったような顔附でチョイとその俵を持っていた杖で突いてみた。
すると、途方もなく大きな三郎坊主の声が、真面目くさって、
ボーン……
と、余韻まで引いて鳴り渡った。――これはその時代の彼の代表的逸話である。がとにかく、一年近く体は寺にいたが、頭は相変らず、同じように野や山や鐘楼のまわりをかけめぐっていた。気に入っていた和尚さんも、これでは仕方がないとでも思ったものか、彼の十三のとき、
「おぬしは、胆はあるようじゃ、が、文字の人ではないらしいで、実家へ戻れ。その方がええじゃろうよ」
と、宣告した。そのとき、彼は別に悲しくも恥しくもなかった。ちょうど、寺にもそろそろ飽きて来た時分だったので、内心ホクホクしながら、貰った飴を大切に舐り舐り、今度は一人で家へ戻って来たのだそうだ。
こんなにして、彼の少年時代はしごくのんきに、思いのままに過ぎた。
紅毛人の黒船がどこへ来たとか、誰某《だれそれ》がおしおきにあったとか、掃部様が斬られたとか、江戸は上を下への大騒動で、かりにも二本差す者は、大なり小なりに相当の苦しみにあわなければならなかった時分、平の土百姓、それも山奥の自分の領主さえ知らないような者の息子に生れた彼は山一つ彼方のことは、噂さえ聞かずに育ったのである。
私共には想像も及ばない、単純さの中に、彼のこの時分までのことは、ほとんどお噺《はなし》に近いような状態で過ぎて行った。
もう十三にもなり、わずかの文字も知り、どこかの箱屋へ年期に入ったこれから先は、だんだん「一人前」に近づく階段で、もっと実際的に興味のある話は、たくさんあるに違いない。
けれども、どうしたものか、寺から戻って、二十二三までのことは、私の知っている範囲では、非常にざっとしている。
生れたときから、狸に腕を折られた彼としては、実際、簡単明瞭すぎる。彼に聞いても言わないし、周囲の者も知らない。
私はただ、箱屋へ一年半ほどいた後、漢法医の下男に入り、またそこを出てから、「屋大工」の年季に入ったことだけを聞き知っているのみである。
箱屋へ行ったのは、稼ぎを覚えるためである。漢法医の世話になったのは、工合の悪い右の肩が、時候の変り目、変り目にいたむのを手療治するためであった。
主人は親切な人だし、仕事は楽だし、手当てはしたいだけ出来るし、彼にとってはこの上ない処であるべきはずなのだが、ただ一つのことが、やがて彼をそこからも飛び出させてしまった。いくら下男でも、薬草刻みをするからには、医術の初歩を知らねばなるまいという、主人の親切気が、彼にとって蛇より化物より嫌いな書物をあてがわせたからである。
「何々の病気には、かれこれの草を煎じて服すべし。それでも利かざるときは、なお、何々を用うべし……。まんではあ、雛形と、ちっとも違わねえこった、ハハハハ」
彼は今でもこう云っては笑うからよほどその方則が滑稽に感じられたのだろう。若しかすると、「先生様」の尊敬は、こんな下らない薬草の講釈から出て来るのかとでも、思ったかも知れない。とにかく、そんな処からは、すぐに出てしまった自分に、彼は今なお愛すべき矜恃《きょうじ》を感じていることだけは確である。
けれども、「屋大工」の処には、かなり長い間いたらしい。そこで相当に腕も出来、顔も広まり、川辺――これは村の名である――「川辺の三郎どん」の存在は、ようやく明かになって来た。
音吐朗々という形容が、全く適切なほど、量の豊な、丸みのある美音と、見事な眼と、雲を突くような偉大な体躯の所有者であった彼は、まだやっと二十一二の若者として、或るときは大工になり、或るときは耕作をしながら、徐々と開け始めた明治という年号の下に、かなり仕合わせな月日を送っていた。
そして、その頃からボツボツ着手されていた、附近一帯の開墾事業が、彼の生活に微ながら、幾分かの影響を及ぼし始めた時分には、昔鐘の真似をした三郎坊主とは、見違えるような「若えてえら」になったのである。
五
その開墾というのは、彼の村と隣り村との間に、果もなく広々と横わっている草刈場を新しい村落にする計画であった。
「狐っぱら」という名がついていたほど、そこには狐ばかり棲《す》んでいた。あまり狐が多いので「烏さえ来ない」ほどだったのだそうだ。狐がいると、なぜ烏が来ないのか私は知らない。けれどもそこへ村を作るという噂を聞いたときには、皆が嘲笑せずにはいられなかったほど、荒漠たる処であったのだそうだ。
ところが案外なことには、彼がまだ、「屋大工」の手伝いのようなことをして、親方の伴をしながらあっちの小屋こっちの隠居所と作って歩いているうちに、あんなに草|蓬々《ぼうぼう》としていた処には、いつともなく目鼻がついて来た。
そして、年季をしまって家に落着いた頃には、そろそろと移住民も姿を見せるようになり、今では寂寞として全く「狐蘭菊の花に隠れ住」んでいたところには、微かに人間の音が響き始めた。
時によれば、馬鹿な同胞《きょうだい》ぐらい、親しみのあるものに思われていた「ならずもの」も、だんだん彼等の位置を明かにされ始め、火繩銃の犠牲になったり「落し」に掛ったりして、化かす暇もなく皮を剥がれ、煮て食われるようになって来る。
他国者が集るので、噂の範囲は広まって、「江戸」での事件などは、わずかずつでも流れ込んで来る。独り三郎のみでなく、村全体の空気が一道の生気を吹き込まれてパッと燃え上ったような、状態になって来たのである。
すると、彼が二十三のときに、彼の村から七人の新百姓が出ることになった。
開墾団体から田地をいくらかと、金や材木を供給されて、新しく出来た村へ新しい百姓として家を持たせられるのが、その新百姓なのである。
若い者は、皆相当に競争もしたのだが、運よく三郎も、その中の一人として「眼きき」された。そして、親達の誇りと、彼自身の自信との間に、実家から、十四五丁ほど隔った開墾地の一郭に、彼はお手のものの普請を始めたのである。
今も昔も、存外些細なことで、人の名誉心が刺衝されることには変りがなかったものと見えて、数ある若者のうちから新百姓に選ばれたということが、彼の非常な箔《はく》つけになった。今までは、「屋大工の三郎どん」だったのが、何かよぶんな言葉が必要なような心持を、人も持ち、まして彼自身は持たずにはいられない。
いつとはなしに、彼は村の男達《おとこだて》のような――この「よう」なというのは大切な言葉である――ものに祭りあげられることになった。
もちろん、彼にしても嬉しくないことはない。むしろ大得意に近い心持で「若けえにゃあ見上げた弁口」を振う機会が次第に多くなった。
実際その頃の、喧嘩、物争いなどは、彼が下駄の真中から割れるような体を、のしのしと運んで、人の三層倍もありそうな眼で、相手をグッと睨まえながら、響き渡る大音声で、彼相当、また同時に相手相応の理窟を並べれば、大抵は雑作もなく片がついてしまう。
そこで人も重宝がって、何か事がちと面倒になると、彼を迎えに行く。「三郎どん、はあ、またやくてえもねえ奴等がおっぱじめやがった。何とか一言云ってやってはくれめえかな」
山から切って来た木を挽いている彼は、かなりもったいぶって、応と云いながら立ちあがる。そして、そのごたごたの真中へ行くと先ず悠々と煙草を一服喫ってから五六分の間に、どうにか形をつけて来る。
自分は生れつき性に合わないで文字は大嫌いだ。だから偉い言葉はちっともしらない。けれども、これもまた生れつきで、曲ったことは、兎《う》の毛で突いたほども黙っていられぬ性分だというような意味のことを、何かにつけて云ったものだそうだ。
それ故、ある意味に於ては、他律的にも彼は「竹をわったような」男になり、一度頼んだら大丈夫な三郎どんにならなければならない。
この周囲の状況と、彼の何者にも負かされる心配のない腕力と、天性授けられている大まかな、こせつかない心持ちとが、どうしても彼を侠客のようなものにせずには置かなかった。
従って、他の百姓、大工とはどこか違った生活が――たとえば、物争いに鳧《けり》がついた祝酒や、振舞や、近所の村のそういう仲間との交際――目に見えなく彼の地味さを失わせて行った。
金銭のことなどについても、そうは焦慮せず、入るものは入るがいい、出るものなら勝手に出ろといった調子だし、他の者のような追従や世辞は一言も云わない。思ったままを、浮んだなりの言葉で云う。
それに対して、人があまりかれこれ云わないことが、彼の美点――自分をちっとも被わない。ありのままで暮すすべての心持を助長するとともに、或る一部からの反感を免れなかった。
六
もの堅い一方の、大きな声も出せない者から見れば、彼は恐ろしい無遠慮なものである。わがもの顔にふるまう奴に見える。何でもつけつけと、赤面しようが、冷汗をかこうが、お構いなしに真正面から遣り込める。
けれども、人に嫌われもするそれらの点を、その開墾地の旦那様と云われていた、山沢さんという人が、すっかり見込んでしまった。そして、家が出来上っ
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