くまで、くるりと後を向いたまま頭一つ動かさなかった。
 けれども、大工の方では、つい酔っていて済まなかったくらいで、機嫌を直せるつもりで、翌朝ものこのこと仕事に出て来た。
 そして、ニヤニヤしながら世辞を云おうとすると、彼はわざと皆に聞えるような大声で、
「おめえ一人が、つい酔ったまぎれの悪態なら、俺あ、勘弁すらあ、が、今度なあ、そうでねえから、許されねえ。さ、行け、来てもらうにゃあ当らねえ。何ぼちょん髷爺でも、山沢の旦那様に、何もかも委された俺あ、貴様みてえな生若けえ小僧っこにばかさって堪るものけえ!」
と、啖呵《たんか》をきった。
 そして途方もなく大きな拳を振りまわしながら、一息に彼のいわゆる「ぼいこくってしまった」のを見た他の者は、思わず顔を見合わせて、長大息をした……。
 一度ならずこのようなことを繰返しながら、とにかく仕事はだんだん捗《はか》どった。
 そして、翌年の花盛りに新築祝いが催されたとき、彼は紬《つむぎ》の紋附を着、お下りを貰った山沢さんの仙台平をはいて、皆の前で彼の言葉でいう「感状」と幾何かの賞金を貰った。
 それがよほど嬉しかったものとみえて旦那様にお目にかけるのだと云いながら、庭に拡げた毛氈の上で、彼は赤い手拭をかぶって、後にも先にもたった一度の蛸《たこ》踊りを踊った。
 かようにして、山沢さんの達者だった時分には、彼も働きがいのある、面白い月日を送っていた。
 けれども、新築へ引移ってから間もなく、若い頃から無理を重ねて来た山沢さんの体にはそろそろとひびが入り始めた。
 重いリョーマチで、足が思うように動かなくなったのがもとで、おいおい中風のようになって行った。
 五六年先までは十日ぐらいの徹夜で、居睡りさえしなかった人も、弱り出すと案外|脆《もろ》くて、七十ぐらいになっていた老母が、まだしゃんしゃんしているうちに、口も捗々しくはきけないようになってしまった。
 あたりの景色が、一目で見晴らせる居間に床をのべて、詩を作ったり、著述をしたりしながら、気任せな日を送るようになると、山沢さんは、もう理窟っぽい人を見るのも嫌いになって来た。
 暇さえあれば、三郎爺を傍に引きよせて、体中を撫でさせながら、罪もない昔話にふけることが何よりの楽みらしく見えたのである。
 年はそう違わないのだが、大藩の立派な武士に生れ、東京にも住み、いろいろの目に会って来ている山沢さんが、彼の珍しがるような話をすると、三郎は三郎でまた、子供に話して聞かせるように手真似、口真似で、ここがまだ狐っ原だった時分の追想を語る。
 静かなあたりの空気を揺って、四五十年の年を、逆に遡《さかのぼ》った長閑な、楽しそうな笑声が、二人の口を突いて出ることも珍しくはなかった。
 平常の通り心持はゆったりとし、余裕はありながら、山沢さんが自分の死期の近づいたことを知っていることが、彼の心に感じられた。
 言葉以上に、はっきりと彼は悟っていたので、それとなく仄《ほのめ》かされる後事に就ても、彼は悲しい謙譲と、愛とに満たされながら真面目に耳を傾けた。
 そして何かの折に、
「貴様の生きているうちは、墓掃除をたのんだぞ」
と云われたとき、彼は黙ってぴったりと、畳の上に平伏した。

        十一

 そんな風になってから、三郎爺と山沢さんはほんとに「仲よし」になった。もう山沢さんが彼に対する愛情を押えなくなったのだともいえる。
 飯まで自分の床の傍で一緒に食べさせながら「旦那様はよく世の中のことを語りなすった」のだそうだ。世の中のことというのは山沢さんの人生観のようなものででもあったろう。
 無学な彼には、一言一語よく訳の通じない言葉はあっても、旦那様の「思惑」は、自分のもののように、よく分った。
 山沢さんが、泣きたいような心持のときには、彼も何だか気が沈む。情ない、「おっちみるような」気がする。
 けれども、山沢さんが得意に昂奮しながら、功名話をするときには、彼もまた自分と山沢さんの見境がなくなるほど、心が嬉しかった。
 世界中の人間に、どんなもんだ! と云いたいように意気揚々とする。
 まるで社殿の、「あまいぬ、こまいぬ」のように床の傍から片時も離れずに一緒に笑い、一緒に憤りしながら、三郎爺は旦那様の顔に現われて来る不吉な相貌をどうすることもできなかった。
 助からない病が、だんだん顔へ出て来るのが、年の功で分るのだそうだ。
 そして、とうとう、まだそう年寄りとはいわれない六十の春に、三郎爺の唯一の愛護者であった山沢さんは、逝ってしまったのである。
 彼は、もちろん非常に悲しかった。大層泣きたかった。両方の肩が、げっそりするほど、力が落ちた。けれども、彼の脣からは、ただ、
「これも世の中だ、仕方があんめえ!」
という言葉が、一句洩れたきり、彼は
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