り、山沢の旦那様に心服していた。
 彼は、主人の細密な心理状態などは知りようもない。ただ、非常に強情なことと、大まかなことと、彼をすっかり信用して、旅行へ出れば財布ごと金を投げ出して、「オイ、三郎、貴様にまかせたぞ、好いようにしろ」と云われることが、三郎の心の中に絶大の感動を与えたのである。
 お前は偉いとか、見上げたとかいう言葉を、その人は一言も吐かない。ただ、大きな頭をコクリと縦に動かして、「よくしてくれたな」と云うだけだったのだが、その単純な、彼の心に滲みとおり易い心持が、彼にとっては自ずと忠勤を励ましたのである。
 何か事業に関したことで、少し昂奮すると、彼はのそりと山沢さんの前へ出て来て、
「あなた、また何か憤っていなさるね、奥へ行かっしゃい、奥へ行かっしゃい」
と云う。すると、「誰の云うことも聞かぬ」山沢さんは、そうかと云って素直に立ちあがって、肩などは揉み潰しそうな、彼の手で按摩《あんま》をされながら眠ってしまう。
 彼はもちろん、自分の言葉の力を山沢さんの持つ度量と比較することはしなかった。勢力の過信は明かである。
 けれども、いくら彼が大きく拡がっていても、無遠慮ではあっても、一言山沢さんに、
「オイ三郎、きっと頼んだぞ」
と云われさえすると、ほとんど絶対的服従をしなければいられないものが、彼の胸の中にあった。
 山沢さんが自分の持つ信頼に就て、一言も説明しなかった通り、彼も自分の中にある主人へのその心持を、ただの一度も説明したことはない。
 もう二十年近く前に死んだその人の噂を、彼は今もよくする。
 旦那様という代名詞こそ使え、言葉なり批評なりは、弟か、従弟のことででもあるように、自由な、心の望むままの形式で話す。悪口を云いながら、わがままをしながら、山沢の旦那様には、命も惜まない愛情を彼は感じていたのである。

        七

 彼の山沢さんに対する愛情は、相手が山沢さんだからというのでもないし、主人と使われる者との間にはとかくありがちな、因縁ずくの諦めなどでは、無論ない。
 彼自身、自覚したかしないかは分らないが、堅い言葉でいえば、「己を知る者のために死す」心持が、彼と山沢さんとの間に、靄然《あいぜん》として立ち罩《こ》めていたのである。
 彼の強情を理解し、制御するだけの強情は自分も持ち、長所に依って彼の欠点を寛恕《かんじょ》して行く
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