わず、
「ハアえれえ暑さなこった」
と独言《ひとりご》ちながら、何心なくフイと腰を延して見ると、いつの間に昇ったか、大きな大きな、途方もなく大きな月がついそこの松の梢に懸っている。
 よく瞳を定めて見ると、大きいばかりでなく、色差しも何だかいつもとは違う。まるで朱塗の丸盆のようにどす赤い月が、ビクともしないで、いつまで経っても同じ梢に止まっている……。
 これにはさすがの女房も驚かないではいられない。大きな声で呼び立てたので、近所合壁の者が皆出て来る。出て来ては、皆度胆を抜かれる。
 まるで、茹《ゆだ》ったか酔っぱらったようなお月様が、小半時、始めの処から一分一厘動かないのだから、なるほど、只事ではない。
 天地が、また火の玉に戻る前兆だの、凶作のお知らせだのと、ワヤワヤ大騒動をしていると、やがて一人の子供が突き抜けそうな声で、
「あれ! 見ろよ、あら! あら! 山からもう一つお月様あおできなすった」
と怒鳴った。
 見ると、ほんとに、朱色のお月様の後の山際から、淡金色のすがすがしいもう一つのお月様が、夕暮の空に後光を燦《きら》めかせながら、しずしずとお出なさる……。
 ところが、いやはや、何とも痛み入ったことには今が今まで、松の梢に悠然と構えて下司共の大評定も知らぬ顔に、夕風をあてていた朱塗のお月様は、その声が聞えると一緒に恐ろしくあわて始めた。
 そして気の毒なほど、尖った葉っぱの上で、モジモジしたかと思うと、やがて思いきったように、一つ、クルリともんどりうつや否や、枝から枝へ、葉から葉へと、赤いまま、大きいままのお月様が、あろうことかコロコロコロコロまるで手毬のように転がり落ち出したではないか。皆はもう、あっけに取られてしまった。おかしいのだか、驚いたのだか訳も分らずに剥《む》いた沢山の眼の前まで落ちて来ると、御愛嬌のように、もう一つポンと弾んで、オヤともアラともいう間もなく、どこへか消えてなくなってしまった。
 その速いこと、速いこと。
 まるで、目にも止まらぬ早業に、うつけのようになった三郎爺の母親は、どういう気持ちだったのか、
「はれまあ……俺《お》ら……」
と、がっかりした口調で囁くなり、ちょうど気抜けのように抱いていた三郎爺を、いやというほど地面へ落してしまった。
 暫くは声も出せないで、ひきつけていた彼を、皆が驚いて抱きあげたときには可哀そうに、右
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