らない。
 私はただ、箱屋へ一年半ほどいた後、漢法医の下男に入り、またそこを出てから、「屋大工」の年季に入ったことだけを聞き知っているのみである。
 箱屋へ行ったのは、稼ぎを覚えるためである。漢法医の世話になったのは、工合の悪い右の肩が、時候の変り目、変り目にいたむのを手療治するためであった。
 主人は親切な人だし、仕事は楽だし、手当てはしたいだけ出来るし、彼にとってはこの上ない処であるべきはずなのだが、ただ一つのことが、やがて彼をそこからも飛び出させてしまった。いくら下男でも、薬草刻みをするからには、医術の初歩を知らねばなるまいという、主人の親切気が、彼にとって蛇より化物より嫌いな書物をあてがわせたからである。
「何々の病気には、かれこれの草を煎じて服すべし。それでも利かざるときは、なお、何々を用うべし……。まんではあ、雛形と、ちっとも違わねえこった、ハハハハ」
 彼は今でもこう云っては笑うからよほどその方則が滑稽に感じられたのだろう。若しかすると、「先生様」の尊敬は、こんな下らない薬草の講釈から出て来るのかとでも、思ったかも知れない。とにかく、そんな処からは、すぐに出てしまった自分に、彼は今なお愛すべき矜恃《きょうじ》を感じていることだけは確である。
 けれども、「屋大工」の処には、かなり長い間いたらしい。そこで相当に腕も出来、顔も広まり、川辺――これは村の名である――「川辺の三郎どん」の存在は、ようやく明かになって来た。
 音吐朗々という形容が、全く適切なほど、量の豊な、丸みのある美音と、見事な眼と、雲を突くような偉大な体躯の所有者であった彼は、まだやっと二十一二の若者として、或るときは大工になり、或るときは耕作をしながら、徐々と開け始めた明治という年号の下に、かなり仕合わせな月日を送っていた。
 そして、その頃からボツボツ着手されていた、附近一帯の開墾事業が、彼の生活に微ながら、幾分かの影響を及ぼし始めた時分には、昔鐘の真似をした三郎坊主とは、見違えるような「若えてえら」になったのである。

        五

 その開墾というのは、彼の村と隣り村との間に、果もなく広々と横わっている草刈場を新しい村落にする計画であった。
「狐っぱら」という名がついていたほど、そこには狐ばかり棲《す》んでいた。あまり狐が多いので「烏さえ来ない」ほどだったのだそうだ。狐がいる
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