ろにあるのは切符ではない一枚の紙っきれで、その紙っきれは絶対にこのクラブの監督を必要とするのである。
 ひどく広い。そこを歩いてゆくとだんだん通路が爪先あがりになっていくみたいだ。一定の方向をむいてあんまり静粛にどっさり並んでいる人間の間をひとりだけ歩いているとそんな気になるのだ。
 白い壁について煌々あたりを輝やかしているいくつもの電燈のカーボン線を震わすような女の声が、マイクロフォンをとおして金属的に反響している。
 ――このようにして、タワーリシチ! 五ヵ年計画はソヴェト鋳鉄生産額を世界第三位に、石炭採掘量において世界第四位に進めるばかりではありません。全ソヴェトの生産に従事する勤労者の平均賃金は五ヵ年計画の終りにおいて七一パーセント増すだろう。国家計画部《ゴスプラン》は……
 樺色の上着の肩で音波を切りながらドンドン歩いて行って監督は赤布で飾られた舞台のすぐ下第一列へ日本女を待たせ、わきの扉の方から椅子をもって来てくれた。
 こんなに遅れて来たのは日本女ひとりである。舞台の赤布をかけた長テーブルの中央に、ニッケル・ベルを前にして、もう相当年配の静かな横顔の女議長がうつむいて何か書きつけている。左右、うしろ側の椅子に並んでるのも八割は党員らしい女だ。テーブルの端っこで速記してるコムソモールカがある。レーニンの石膏像。赤いプラカートは二階バルコンの手すりからも張りまわされている。正面には燃えるようなプラカート「第十回世界無産婦人デー万歳! レーニズムの旗の下に五ヵ年計画を四年で!」棕梠の大鉢が舞台の両端に置かれてある。
 ――電化による生産手段の発達は現在一日平均七・七一の労働時間を六・八六に短縮するでありましょう。プロレタリアート新文化建設の一進展として、文部省は五ヵ年計画の終りには完全な国庫負担による四年制の全国民教育を実施しようとしているのであります。
 飛び交う数字と一種名状すべからざる緊張した熱意で飽和している空気の中をそっと、一人の婦人党員が舞台から日本女のところへきた。彼女は日本女の耳に口をつけて云った。
 ――ようこそ! どこからです?
 ――日本から。
 囁きかえした。
 ――代表ですか?
 ――いいえ。
 ――舞台の上へいらっしゃいな。もし演説して下さると非常にいいんだが――
 六七百人入っているのだ。
 日本女は辞退した。婦人党員はわきにしゃがんで日本女の膝の上へ持ってたハギトリ帖と鉛筆をのせた。
 ――では、どうぞ名と職業を書いて下さい。
 彼女は、日本女が耳で演説をききながら下手な字で「日本《ヤポーニヤ》。作家《ピサーチェリニッツア》、ユリ・チュウジォ」と書くのを熱心に見ていたが、手帖をもって立ち上りぎわ、低い声に力をこめて、
 ――ありがとう!
と云った。
 あなたが今夜来られたのは満足です。
 捲き上げるような拍手とインターナショナル第一節の奏楽が起った。演説が終ったのだ。演説者の小柄な婦人党員は水さしから一杯水をのみ、鎌と槌を様式化した演壇から議長のいるテーブルへかえって行った。
 くつろぎが広間じゅうにひろがった。
 日本女はリノリューム敷の通路を隔て左側の坐席にいる四十ばかりの太い拇指をした男にきいた。
 ――彼女の演説、長うござんしたか?
 ――我々ソヴェトの人間は短く話すのが得手でないんでね。
 そう云って笑った。それから真面目につけ加えた。
 ――五ヵ年計画そのものが小さい仕事じゃないからね!
 それは本当だ。うしろでこんな囁き声がする。
 ――どうしたの! お前さんたら。
 ――帽子見に行ったもんだから……
 三月八日、СССРの工場で婦人労働者は毎年一時間早く職場を引き上げる。
 ベルを鳴らしながら議長が立ち上った。細い年齢のあらわれてる透る声で報告した。
 ――何々区コムソモール委員会代表タワーリシチ・イリンスカヤ。
 さかんな拍手に迎えられて演壇へ出てきたのは二十二三の緑色ジャケツと純白なカラーのコムソモールカだ。が、然しこれは又なんと高速度演説! ちらりちらり上眼で聴衆を見ながら一分間息もつかぬ女声の速射砲。農婦と工場労働婦人の結合のため、我々コムソモールは全力をつくすであろう! ひょいと片肱あげて一段高い演壇から降り、舞台の奥へ戻ってしまった。湧きおこるインターナショナル。
 こまかく折畳んだ紙片が肩越しに順ぐり送られてきた。最前列の女が席を立ってそれを舞台の上、演壇の下に出されてる投書受箱へ入れてきた。
 ――タワーリシチ! 今夜盛大な第十回世界無産婦人デーの夕を持つことは実に愉快であります。何々区ソヴェトの心からの歓びを諸君に伝える為私は代表としてここに送られたのであります。(さかんな拍手)
 マイクロフォンへ真正面に顔を向け一言一言はっきりしゃべってるのは、小肥り
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