、目立たないようにショールをもって行った。これから自分の主人になるのはどんな人だろう、優しい人だろうか。こわい人ではないだろうか。遠縁にあたる王子の小父につれられて初めてお針屋へ行った途中の気持もおぼえがある。
実際、名をよばれて出て来る男のなかにはあっさりおとなしそうな様子の人もあり、余り親切そうにも見えないのもある。紹介のすんだ組は離れたところからそれ迄とは違う関心を互に通わせて、少年の方は、その一つの顔を見はぐるまいと気を張っているようだし、大人の方はもっと複雑に少年をねぶみしているように見える。勇吉の行くヤマダ合資会社という羅紗《ラシャ》問屋はどれだろう。サイは帯揚げの結びめでもゆるめたいような苦しい気になった。
城山《しろやま》の別府勇吉君! 勇吉が体操のときのように脚をひろげて一歩二歩三歩と前へ出た。日本橋区芳町二丁目ヤマダ合資会社藤井謹之助さん。小紋の粋な羽織に、黒レースのショールを軽く手にかけた女がその声に応じて歩み出したのを見て、サイは何故となく伏目になった。上野の駅からこの三十四五の痩せぎすな女の疳性《かんしょう》らしい横顔がサイにいい印象を与えていなかったのであった。
その女のひとは、教員のそばへよって小腰をかがめながら何か二言三言云った。
「は、いや、御苦労様でありました」
改めて勇吉の方へ向き直って、
「けさは会社の支配人さんがお出でになる筈でしたが御病気だそうで、奥さんが代りにおいで下すったそうです」
勇吉はきちんと礼をして列に戻って行った。雇主にあたる人々と出迎に来た少年の身内のものも形式ばって引合わされたが、サイをまぜてそれはほんの五六人であった。
それから教員は短い訓示を与えた。東京の悪い誘惑にまけないで立派な産業戦士になるように。
「困難な場合がおこっても、諸君が今朝東京の土を踏みしめたこの第一歩の心持を忘れずに、どうか勇気を奮いおこして下さい。万歳を三唱いたします」
雇主側の人々が前列に、うしろに少年達が並んで、万歳、万歳、万歳と三度叫んだ。朝の陽かげは益々砂利の広場を広々と照し出して、一行の姿も小さく見え、叫ぶ声も風の中へとんだ。
界隈はずっと軒なみ問屋で、サイと勇吉がよりかかっているガラス窓越しに、隣りの裏手の物干が目の先に見えた。そこで女が洗濯物をひろげている。一方に板戸棚のついた十二畳のその部屋に店の若い者みんなが寝起きしているらしく、往来に向った窓際にもこっちの窓の下にも小さい机が三つ四つ置いてある。後はがらんとして、ガラス越しの日光が琉球表の上に斜めにさしこみ、何処やらに男くささが漂っている。吻《ほ》っとしたような安心しきれないような眼つきでサイは机のあたりや戸棚のあたりを眺めた。兵隊に出る年までには商業も出してやるという話で、勇吉は来ているのであった。
朝飯が出来たら呼ぶからと云って迎えに来た女が降りて行ってしまうと、忙しいような静かなような四辺に折々電話のベルがきこえて来る。暫くしてサイが、がらんとしたその部屋のひろさに押されたような小声で話し始めた。
「姉ちゃん、けさ大まごつきした。なんで時間はっきり知らさなかったのよ」
「おらもはっきり分んねかったんだもの」
「――うち変りなしか?」
「うん。母ちゃんが、姉ちゃんに負けん気だして、辛《こわ》えの無理しんなって、よ。帰《けえ》りたかったらいつでもけえって来って」
サイは、
「母ちゃん、そんなこと云ってた?」
と何気なく笑ったけれども、その言伝《ことづて》は心にしみた。お針屋に十月《とつき》いて肋膜になったときもサイは帰らず、この二月には、夜業をつづけて二十円も国へ送った。勇吉は親身な情愛と珍しさのこもった少年ぽい眼差しで初めておちおちと姉を見ながら、
「母ちゃん、姉ちゃんに会ったらよく云えっつたよ」
「大丈夫さ。この頃は、サイさんよく続くって伍長さんが褒めるぐらいなんだもの」
田舎へかえりたくないサイの気持は、この仲よしの弟にもうまくは話せそうもない。あの村。その村のなかの家。そこでの鶏の鳴く刻限までおよそきまっている毎日の生活。思い出すと何とも云えず懐しいところもあるが、あのなかに織りこまれてまた暮すことを考えると、体も心も二の足ふんで、こっちにいたいと思えて来る。王子で二月《ふたつき》近く臥て、その間にサイは何度か泣いたが、到頭いてしまった。未来の生活というぼんやりした輪も、今ではこの生活とつづいたところで考えられるような塩梅である。
壁ぎわで荷をあけはじめた勇吉の日にやけた赤い頬っぺたや、胡坐《あぐら》のかき工合は、まだその膝の辺に藁でも散っていそうに田舎の気分をもっているが、この勇吉にしろ、やがてはその気持もわかるここの暮しの繋りのなかに、自分ではそうとも知らずに踏みこんで来た。七つという
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