とおり、まだ数日余裕が与えられてありますから、愈々《いよいよ》出発の前日迄はこれまでどおり、及ばずながら御一緒に働きたいと思います」
 飛田は、それだけ云うと軽く頭を下げる様子をして、やがて、
「作業をつづけて」
と、もう一度、自分も図板の間を歩きはじめた。
 みんなうつ向いて、サイは何ということなし散っていない後れ毛をかきあげるような動作をした。烏口だの定規だのが、ばらばらにお義理のようにとりあげられた。すると、室の奥の図板のあたりで、くッ、くッと笑いをこらえているのか、泣声をこらえているのか咄嗟には分らないような女の喉声が洩れて、とよ子が軈《やが》て誰の目にも明らかな啜り泣きで作業服の肩をふるわしながら、顔をおさえて小走りに室から出て行った。
 何とも云えないその場の空気になった。飛田は最後の図板まで同じ歩調でまわって、一言も云わず隣りの室へ走った。
 よほどたって、とよ子が極りわるそうに、洗い直したような顔をうつむけて、そっと自分の図板へ戻って来た。そして、まだすっかり落着けないらしくどこか気落ちのしたような風で烏口をいじりはじめた。
 弓子は、ちぇッというような眉のあげかたをしている。綾子が案外冷静に、頬の上の派手な黒子をこちらに見せて、唇のあたりに妙な薄笑いのような表情を泛べながら仕事しているのを見ると、サイはいやな気持になった。一つ一つの図板のまわりから見えない渦が流れ出して作業室のなかをめぐっているようで、サイは、仕事に身がいれられなくなった。
 飛田のあとには、どんな伍長が来るだろう。サイにしろ、烏口へ墨汁のふくませかたから教えられた飛田と離れることは、何か普通の気持でないのであった。
 てる子が無邪気に、
「ああア私、何だか変な気分になっちゃった」
 定規を図板のむこうへ押しやるようにしながら、胸を反らしてその辺を見まわした。
「ねえ、何か御餞別あげなきゃわるいでしょう? みんな何あげるの?」
 返事をするものがなかった。
「みんなで羽二重の千人針こさったげましょうか」
「うるさいわよッ」
 弓子が疳癪声を出した。
「あとで、みんなして相談すればいいじゃありませんか」
 てる子のああア私と云った声も、それを叱りつけた弓子の声も、仲間うちにきこえる程度でのひそひそ声であった。作業時間のうちに話しすると、ひどくおこられた。
 シセンを越えるという語呂の
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