の一生とは何であろう。
 菊池寛氏の「新女大学」は日本の婦人のための高等教育の中途半端さを、文化全般の低さからもたらされる一つの不幸として見るよりも、多くの良人が「完成品を自分の妻とするよりもどちらかといえばまだ未完成品を妻として、それを自分の好みによって、自分の好きなような女性に作り上げてゆく方がはるかに楽しみで」あるという理由で、婦人に高い教育を必要としていないということも、注目される。女性尊重を男に向って説きつつも、男が好きなように作ってよいものとして女が基本的に提出されているとき、そこにどのような人格の五分五分がなり立とう。
 今日の複雑な現実のなかで、男の生活感情も女の生活の実情もある面では遙にこの「新女大学」を溢れているのが実際だけれども、それにもかかわらず福沢諭吉が新人の友として高らかにうち鳴らした新しい生活への鐘の余韻が、今日の日本にこのようなものとして現れ得ているところに、私たちの痛切な関心をひく何ものかが隠されていると思う。
 私たちやより若い世代が、「女大学」でもなく「男大学」でもない生活の本を、自身の生活で書こうと念願して生きている刻々のうちに、せめてはだれ[#
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