徴を語っているのであろうか。世間一般の気風とかく落着かずまじめに女学論など唱えてもまじめに耳を傾ける人などはなかったために、「幾十年の昔になりたる」その腹稿はやっと、福沢諭吉が最後の病臥をするようになって初めて公衆の前にあらわされた次第であった。
「夫れ女子は男子に等しく生れて」という冒頭をもった全篇二十三ヵ条のその「新女大学」で福沢諭吉が最も力をこめている点は、婦人の独自な条件に立っての体育、知育、徳育の均斉と、結婚生活における夫婦の「自ら屈す可からず、又他をして屈伏せしむべから」ざる人生の天然に従った両性関係の確立、再婚の自由、娘の結婚にあたって財産贈与などによる婦人の経済的なある程度の自立性などである。詠歌には巧みなれども自身独立の一義については夢想したこともなく、数十百部の小説をよみながら一冊の生理書をよんだこともない婦人の多いのをなげき、「学問の教育に至りては女子も男子も相違あることなし。」それが原則であるけれども、日本のように女の学問を等閑にして来た国ではその段階に至る迄に相当の年月が入用であろうと見ている。「文明普通の常識」の程度として、「殊に我輩が日本女子に限りて是非とも其知識を開発せんと欲する所は社会上の経済思想と法律思想と此二者にあり」婦人に経済法律とは異様にきこえるかもしれないが、その思想が皆無であるということこそ社会生活で女の無力である原因中の一大原因である。女には是非この知識がいる。「形容すれば文明女子の懐剣と云うも可なり」といっている福沢諭吉の言葉は、爾来四十余年を経た今日私たちの現実のなかで、はたしてどのように形をとって来ているであろうか。「新日本国には自から新人の在るあり、我輩は此新人を友にして新友と共に事を与にせんと欲する者なれば」と、敢て保守の人々の反対をも予想しつつ、福沢諭吉のこの「新女大学」が出た明治三十二年といえば、西暦一八九九年、まさにキュリー夫妻が彼らの記念すべき物理学校の粗末な実験室で辛苦協力の成果としてラジウムを発見した翌年である。イプセンの「人形の家」が書かれたのは日本の明治十一年であった。そしてモウパッサンの「女の一生」の書かれた一八八三年は明治十六年。トルストイの「クロイツェル・ソナタ」の書かれたのが明治二十年というとき、私たちの心にあるおどろきに似たものが感じられるようではないだろうか。世界に卓越していた婦人
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