彼奴が不愉快だから、会わん」
「そんな大きい声を出して」
「聞えてもよろしい。俺は絶対に会わん。そういってくれ」
その畳廊下からは、八つ手の花の一粒一粒が刺さるような白さで見え、暗くなりかかった植込越しに、隣の家の子が腰につけて部屋の中を馳けているらしい鈴の音も、聞きとれるのであった。
三
殆どこれと同じ時刻に、有楽町の駅を出た一団の人群にまじって、一人の若い女が朝日新聞社の横から、トラックをよけながら数寄屋橋の方へ出て来た。
橋の上の広くもない歩道は、青や赤のゴム風船を片手に子供の手をひいてそろそろ歩いている夫婦ものや、真新しくそりかえった足袋に派手な草履をはいた若い女づれの一組などで日曜日らしく混雑している。
日本服を着なれないぎごちなさで、白襟をきつく合わせているその娘は、大股に、すこし右肩をよけい振るような膝ののびた歩きつきで人通りの間を尾張町へ出た。そして、少し行って右側にある大きい文房具店へ入った。地階で、帳面を一冊とペン先とを買い、段々をのぼって、いろんな種類の舶来おもちゃが並べられている陳列棚を眺めはじめた。赤い頸飾りをちょこなんと結んだ一匹の黄色い仔猫が、日向ぼっこをしている自分の背中へとまった蠅を、びっくりした目で見かえっている陶器の置物があった。その蠅がいかにも精巧に本物らしいので小さい猫の驚きに実感がこもり、同時に本物なのかしらと思わず見直すところに、製作者の軽い笑いがかくされているらしい。その娘も、白粉をつけていない、真面目な顔つきに、瞬間おやという表情を浮べて、その蠅に注意をひかれた。
この時、陳列棚のむこう側から、年に合わせては地味な縞背広を着た一人の背の高い青年が、やはり並べられている品物を眺める風でぶらりと現れ、娘が仔猫を眺めていると同じ棚の横手に佇んだ。
硝子に映った人影で娘は顔をあげた。しかし、近づいた青年を別に見直すでもなくその棚の前をはなれ、今度は急がぬ歩調ながらどこへも立ち止らず出口の方へ向った。
つづいて、その店の大きい紙包みを下げた女連れがゆき、あとから背広の青年もそこを出た。シーソー遊戯の玩具を売っている露店の前で娘はその青年と肩を並べ、二人はどちらからともなく新橋の方角へ動きだした。数間歩いて、一つの横通りを突切るとき、青年がはじめて口を切った。
「寄宿の方はいいのかね」
「土曜日曜は平気だわ」
「相当みんなこの辺をぶらつくんだろう?」
「大抵新宿」
青年はこれも目立たぬ鼠色のソフトをかぶった頭を心もち右へ傾けるような癖で娘の方は見ず暫く黙って歩いていたが、やがて、ゆったりした口調で、
「ここを曲ろうか」
人通りの劇しい表通りを左に折れた。娘も素直にそれにつれ、羽織と対の大島絣の裾を学生っぽくさばきながら並んで足を運んでいるのであったが、いかにもよそ行きという風に、ほんのすこし紅をつけている彼女の口許には、何か云おうとしてうまく言葉の見つからない焦燥のようなものがあらわれた。山本はる子という本名のかわりに、背が割合高いから高井がいいだろうと笑いながら仕事の上での呼名を彼女に与えた兄の静岡高校時代の親友、佐藤重吉という代りに太田と呼ぶような全く新しい組織的な関係でこうして折々会うことになった重吉に対して、はる子は一つの聞いて貰いたい自分の感情をもっているのであった。
赤い毛糸の腹巻きをして上体を左右にふりながら岡持ちを片手に鮨屋の出前が狭い鋪道を縫って走って来た。それをよけるはずみのように、はる子は熱心な顔つきのまま、
「でも私うれしいんです」
いきなり、率直に並んで歩いている重吉に云った。
「東京へ来たら、きっとこういうことがあるだろうとずーっと思っていたんだから……」
当時左翼の波はひろく深く学生生活の内部へ滲透していた。はる子は兄の「戦旗」を女学校の上級で読んだ。意識をもって兄のために使いの役をした。塾へ来てから研究会の積極的な一員で、救援会と「戦旗」配布の活動を受持つようになったのであった。
はる子は、気象のあらわれた一種の早口で更に自分の云った言葉を補足した。
「勿論個人的な意味じゃなしに――わかるでしょう?」
そして、顎のふっくりくくれた、割に上瞼のくぼみめな顔を微かに赧らめて微笑した。その修飾のない言葉と笑顔とが、重吉の大きく緊った口元をもゆるめた。彼は、
「――よくわかるよ」
そう答えて、非常に印象的な笑顔をした。彼の一見いかつい眉つきを破って、内部に湛えられている情感的なものが輝いて流露する、そんな笑いであった。
はる子は、歩いている足はゆるめず黒地に赤をあしらったハンドバッグをあけ、小さく半紙にくるんだ金を出して、重吉に渡した。
「mの方は、まだあんまり大衆的に行かなかったんだけれど。――誌代はちゃんとあり
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