は、父の洗顔がすむと、もう髭にも大分白いものの見える父親の顔がブラシの動きと一緒に映っている鏡の横から自分の喜々とした顔をのぞかせ、宏子はそこにある台から母の白粉をとってつけた。
 食卓についても、順二郎が帰らなかった。
「どうだね、そろそろはじめちゃ」
「そうしましょう。じゃ、お給仕をして」
 瑛子は、
「順二郎さんの分をさめないようにね、おかえりんなったらあっためてお上げ」
と、念を押した。
 順二郎は、夕飯が七分通り終りかけた頃、制服姿で現れた。
「おそかったねえ、おなかがすいただろう。小枝や、さっきのをすぐあつくして」
 中学校が古風なフランス人の経営で、生徒に運動をさせなかった、その故もあるのか、順二郎の背の高い体は、どっちかというとぼってりした肉付であった。鼻の下に柔かいぼんやり黒い陰翳《いんえい》がある丸顔には、青年らしいものと少年ぽいものと混りあってのこっている。特に、姉の宏子と同じように父親似で、くっきり山形のついた上唇の線は、彼の顔にあっても印象的な部分をなしているのであったが、その唇のところに彼の子供らしさは主としてのこっているのであった。
 実際の内容はちっとも知っていないが、世馴れた概念で大まかにつかんだものの云いかたでドイツ語の進み工合を訊く父親の言葉、一品の皿も自分の愛情で味を濃くしてすすめるような母親の素振りを、順二郎は格別うるさそうにもせず、
「そう?」
「いや僕いらないよ」
などと、ゆったり、いかにも素直に受けこたえしている。
 姉弟の間だけで話が弾みはじめた。
「ドイツ語って、やっぱり田沢さんとこへ行ってるの?」
 順二郎が高校を受験するとき、準備して貰った独逸哲学出身の人のことであった。
「ちがう。田沢さんが紹介してくれたドイツ人、カフマンての」
「この頃でも田沢さんに会う?」
「うむ、ちょいちょい」
「やっぱり蒼くって、深刻そうにしている?」
 ふ、ふ、ふと、悪戯《いたずら》そうに笑う宏子につれて順二郎も、ふっくりした顔を笑いにほころばした、ただ声だけは出さないで。
 親たち夫婦の間には、また別箇な話題がすすんでおり、宏子は三井とか某々さんがとか、新聞でよむような人々の名を小耳に挾んだ。丁度姉弟の間で、ドイツ語の発音やエスペラントの話が盛になって来た時であった。築地の土地が、とさっきから没落した実家の処理について話していた母
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