あたりばったりのように買ったトルストイの新しい角度からの評伝が面白く、文学というものが別な光りに照らされて宏子の前にあらわれた気がした。そういう、文学についての本が欲しい。それには、はる子も大して知識がなかった。宏子はプレハーノフ「文学論」ファジェーエフ「壊滅」という二冊の本を買った。
 今度は玄関があいていた。沓ぬぎの上に、母の草履と並んで男靴が揃えられてある。
「お客様?」
「田沢さんが奥様と御一緒にいらっしゃいました」
「…………」
「あのお客様と西洋間にいらっしゃいますから」
 そっちへ行かず、宏子は居間の方へ入った。
「申上げましょうか」
「いい、いい」
 さっき往来で見たように思った母の横顔の印象が甦って来た。田沢の来ているのが田沢の側からの偶然というばかりではないように思え、宏子は自分の推測がそんな風に動かされるのが辛かった。この間の晩、夜中に起きて物を書いている宏子のところへ来た時瑛子は泰造が田沢の出入りについて感情を害していて困ると娘に訴えた。瑛子はその時、
「父様だって、正田さんの細君が来た時は、一遍入ったお風呂にまた入ったりなすった癖に」
と、何年か前、宏子がうろ覚えに知っている外国帰りの夫人の名をあげたりして、苦笑した。父様だってというのは変よ、その時宏子はそう云った。
 瑛子はどちらかというと大きい声で物を云うたちであった。それだのに、今客間は、ひっそりしていた。宏子は、不自然な気がして、苦しい心持がつのり、いっそ帰ってしまおうかと置時計の方を見た。その時間からではもう寄宿の食事もなかった。
 洗面所へ行って、宏子は髪をかきつけながら、明るい鏡の面に映っている沈んだ自分の顔を検べるようにじろじろと永い間眺めた。自分は嫉妬しているのであろうか。宏子にはそう考えられなかった。宏子は田沢が始っから好きでなかった。宏子さんがどうこうと田沢が云ったと批評らしい言葉を瑛子がつたえると、宏子はよく、
「ふうむ」
と云ったきりであった。田沢はたしかに泰造とも、順二郎とも、宏子とも、瑛子自身とも違った部類の人間であったが、その違いは、ましなもので異っているのだと宏子には思えなかった。ドイツ語だの、哲学だので外側から身ごしらえしている。人為的人間。宏子は日頃そう思って、自分から進んで会おうとさえしなかった。寧ろ軽蔑を感じているものに、瑛子が、惹かれているように
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