四
灰色っぽい漆喰壁のところに横木が打ってあって、そこから小型黒板が下っている。白墨を丁寧に拭きとらない上から、乱暴に、渋谷、谷田様より午後一時電話と書生の字でかいてある。その横の壁のうんと高いところに銀三四九〇とアラビア数字で白墨書きがあり、気がついて見ると、その電話のまわりには、謂わばところきらわず、がさつな事務所にでもありそうに番号変更の紙を貼りつけたり、番号をかきちらしたりしてある。板の間の天井から燭光のうすい電燈がついていて、その下を行ったり来たりしている宏子の姿を、鈍く片側のガラスの上に映している。宏子の心持の九分は、電話のかかって来るのを待っているのであった。休日にかえって来る時、はる子が、今日夕方の六時までに万一電話をかけなかったらばと云って頼んだことが二つあった。電話がかからなければ宏子は大急ぎで寄宿へ戻らなければならなかった。そして、はる子と約束したことを、必ず果さなければならないと思っているのであった。はる子は、それを頼んだ時、同輩ではあるけれども、或る方面での経験では先輩であるという確信をはっきり瞼のくぼみめな顔にあらわして、
「あなた、割かた自由に家の出入りをやってるらしいから頼むのよ、いいでしょう?」
と、もとより宏子が拒まないことを信じている口調で云った。行きかけたのを小戻りして、
「――責任もってね」
更めて小声で囁《ささや》いて去ったのであった。
宏子は、ベージュ色のスウェータアの下のところを、組み合わせた手へ巻き込むような工合にして、頭を下げ板の目かずを数えるように靴下の上にソックスを重ねてはいた自分の足のたけだけを一直線の上にかわるがわる踏んで狭い場所をゆきつ戻りつしている。扉一枚の彼方の台所は忙しい最中であった。物を刻む庖丁の音に混って、
「アラア、ちょいと八百金まだなのオ」
という声がする。
電話を待つ緊張と、畳廊下での親たちの諍《いさか》いの印象とが宏子に人と喋るのがいやな心持を起させているのであった。宴会があって、泰造は一時間ばかり前出かけた。それより前に田沢は帰った。瑛子は、田沢が来たとき着かえた観世水の羽織を着て、食堂兼居間のおきまりの場所に、大きい座布団を敷いて坐っている。何だか宏子は、そのわきに坐っていたくないのであった。非常に漠然とした、だが重い後味が宏子の胸にのこされた。父親がむ
前へ
次へ
全26ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング