曜は平気だわ」
「相当みんなこの辺をぶらつくんだろう?」
「大抵新宿」
 青年はこれも目立たぬ鼠色のソフトをかぶった頭を心もち右へ傾けるような癖で娘の方は見ず暫く黙って歩いていたが、やがて、ゆったりした口調で、
「ここを曲ろうか」
 人通りの劇しい表通りを左に折れた。娘も素直にそれにつれ、羽織と対の大島絣の裾を学生っぽくさばきながら並んで足を運んでいるのであったが、いかにもよそ行きという風に、ほんのすこし紅をつけている彼女の口許には、何か云おうとしてうまく言葉の見つからない焦燥のようなものがあらわれた。山本はる子という本名のかわりに、背が割合高いから高井がいいだろうと笑いながら仕事の上での呼名を彼女に与えた兄の静岡高校時代の親友、佐藤重吉という代りに太田と呼ぶような全く新しい組織的な関係でこうして折々会うことになった重吉に対して、はる子は一つの聞いて貰いたい自分の感情をもっているのであった。
 赤い毛糸の腹巻きをして上体を左右にふりながら岡持ちを片手に鮨屋の出前が狭い鋪道を縫って走って来た。それをよけるはずみのように、はる子は熱心な顔つきのまま、
「でも私うれしいんです」
 いきなり、率直に並んで歩いている重吉に云った。
「東京へ来たら、きっとこういうことがあるだろうとずーっと思っていたんだから……」
 当時左翼の波はひろく深く学生生活の内部へ滲透していた。はる子は兄の「戦旗」を女学校の上級で読んだ。意識をもって兄のために使いの役をした。塾へ来てから研究会の積極的な一員で、救援会と「戦旗」配布の活動を受持つようになったのであった。
 はる子は、気象のあらわれた一種の早口で更に自分の云った言葉を補足した。
「勿論個人的な意味じゃなしに――わかるでしょう?」
 そして、顎のふっくりくくれた、割に上瞼のくぼみめな顔を微かに赧らめて微笑した。その修飾のない言葉と笑顔とが、重吉の大きく緊った口元をもゆるめた。彼は、
「――よくわかるよ」
 そう答えて、非常に印象的な笑顔をした。彼の一見いかつい眉つきを破って、内部に湛えられている情感的なものが輝いて流露する、そんな笑いであった。
 はる子は、歩いている足はゆるめず黒地に赤をあしらったハンドバッグをあけ、小さく半紙にくるんだ金を出して、重吉に渡した。
「mの方は、まだあんまり大衆的に行かなかったんだけれど。――誌代はちゃんとあり
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