ころへ膝をついてとりついだ。
「奥様、ただいま築地の雄太郎さんがお見えになりましたが……」
「あなた」
 瑛子が、いかつい声になって云った。
「雄太郎が来ましたそうですよ、この間っから云っている学費の明細書を、今度こそ出すようにおっしゃって下さい。ようございますか?」
 そして、こっちへ向いたまま、
「日本間へ通して」
と云いつけた。
「ほんとにどこでもいろいろな身内の厄介がありましてねえ。――おうちなんかでもお世話でしょうねえ」
 吉本は、きちんと坐ったままただ笑っている。程なく紅茶茶碗を一つだけ盆にのせ、お砂糖を、と入って来た。その茶碗を瑛子が見た。
「おや、レモン入れたのかい?」
 不服そうに、居あわす者にきこえる位の声で云った。その場の皆の前にあるのはレモン入りの紅茶である。瑛子は顰蹙《ひんしゅく》した声で云った。
「レモンなんぞ入れないだってよかったのに――」
 偶然、自分の茶碗からレモンの切を受皿へどけていた宏子は、茶碗の中を見たまま顎のところまであかくして、暫くは顔をあげなかった。
 間に二人ほど泰造の事務的な来客があった。四時頃、宏子が腕時計を見ながら階段下を来かかると、畳廊下のところに、中途半端な立姿で、羽織だけ着更えた瑛子が佇んでいる。隅の衣裳箪笥の戸をあけて、泰造がこちらへ細かい大島の背中を向け、中に吊ってあるモーニングの内ポケットから紙入れを出しかけているらしいのであったが、その手つきは焦立ったように動いているにかかわらず、いかにもしないでもいいことを手間どってしているような風である。瑛子が、声を低め、熱心に云っていた。
「だってあなた、そんなことは出来ませんよ、失礼じゃありませんか」
「いや失礼じゃない」
「これまで家庭的にやって来ているのに、今急に――」
 傍を通りぬけようとする宏子を、
「ちょいと、宏ちゃん」
 瑛子は、当惑と抑えた腹立ちと更に際立って一種のつややかさが動揺している仄白い顔の表情で宏子を呼びとめた。
「お父様にゃ困ってしまう。折角田沢さんが見えたのに、どうしても会わないっておっしゃるんだよ」
「…………」
 唐突ではあるし、その場の空気はただならないし、若い宏子には、何と云ってよいのか分らなかった。
「あなたのようにそういきなり感情的になったって――わけが分りゃしないじゃありませんか」
「訳はよく分ってるじゃないか。俺は
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