というばかりでなく、ここにはやはり、人間精神というものの自覚において女性は大体男よりも漠然としており、精神の自主への欲望もぼんやりしているという社会的な女のありようが、おのずから反映して来ているのだと思えて、つきない感想を唆《そそ》られる。
 なるほど少女を主人公として、その苦悩を描いた作品はイギリスの「セーラ・クルー物語」アメリカの婦人作家ウェブスターの「あしながおじさん」(岩波文庫)などのほか、フランスではジョルジ・サンドが「愛の妖精(ファデット)」(岩波文庫)などで描いている。けれども、それらの作品と前にふれたヘッセの「車輪の下」その他の人々の作品との間に在る決定的なちがいは、女の作家のかいた女主人公たちは、ほとんど例外なくそれぞれの環境を偶然的な境遇の不幸として、そこの中で雄々しく可憐にたたかってゆくものとしてとらえられている点である。決して「車輪の下」のハンスのようにプチ・ショウズのように、主人公たち人間の内面的発展の欲望の自覚や、それと相剋するものとしての環境の本質の自覚が見られてはいない。従って、女の子を主人公としたそれぞれの物語は「セーラ・クルー」の大団円にしろ、「あしながおじさん」にしろ、ロマンティックな父親の親友の出現ややがては良人となった富貴な保護者の出現で、物語の境遇が変化させられ、ハッピー・エンドになっていて、女主人公たちの内的成長は、始まりから終りまで云わば性格的なもの、気質的なものの範囲から出ていないのである。
 マリイ・オオドゥウは、生活に対して身にしみた感覚の健全さをもっている婦人作家の一人であるが、「孤児マリー」(第一書房・堀口大学氏訳)では、ややいくらかマリーの性格の内面的発達のモメントとして孤児院の苦しい生活を描いている。特に、最後の死の床で尼さんが、尼になんかなってはいけない、と唸くように告げるあたりの描写では、作者オオドゥウが修道院や尼の生活に感じている抗議が行間から迫って感じられるのである。オオドゥウでもその範囲であって、多くの若い女性の少女期が、親の膝下でふーわりと過されているか、例外として不幸な孤児院や寄宿学校の生活に境遇として暮す程度で、人間精神の推進の欲望が激しく周囲とぶつかってゆく少女は描かれていないのである。
 欧州の社会でも、男の子と女の子との精神の自覚の上にこれだけのちがいが在らせられているという事実に、
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