、そういう名詞につれて従来考えられ描かれて来ている道具立てを一通り揃えて考え、職業をもっている婦人だって妻は妻と、その場合自分の妻としてのある一人の女を見ず、妻という世俗の概念で輪廓づけられているある境遇の女の姿態を描く傾が、決して弱くはないと思う。
女のひとの側から、男を見る場合そういうことがないといえない。あのひともいいけれど、結婚する対手となるとまたちがう、という標準は何から生じるのであろう。そこまで深く調和が感じられないという意味のときもあろう。だが、良人としてはもっと何か、というとき、やっぱり妻を養う経済力とか地位の将来における発展の見とおしとか、そういう条件がつけ足されて選択の心が働くことが多いと思う。
若い女が素朴に恋に身を投げ入れず、そういう点を観察することが小市民の世わたりの上で賢いとされた時代もあった。いわゆる人物本位ということと将来の立身出世が同じ内容で、選択の標準となり得た時代も遠い過去にはあった。けれども今日の大多数の青年の苦しみは、明治時代の人物本位という目やすが自身の社会生活の生涯に当てはまらなくなっていることから湧いている。精励な会社員はあくまで社員
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