ある唯物論者といわれている人が、某大学の学生の座談会によばれ、その学者は、青年たちに、性的な欲求は現代の社会で、その自然な解決が閉されているのだから売笑婦によってドシドシ処理して行ったらよい、病気にさえならなければよい、という意味のことを語ったそうである。ある人たちはその見解に納得したであろう。ところが、ある納得せぬ人々の一団があった。そしてその納得できなかった青年たちはある人のところへ来て訴えた。自分たちは道学者流に考えているのでもないし、性的経験に対して臆病であるとも思わないが、性的衝動を感じて、その解決をねがっても売笑婦のところへはどうしても行けない。いいとかわるいとかではなく、行く気になれない。あるいは不便で不幸かもしれないが行けない、といっているのである。
一方に、同じ年頃の青年でも、そういう面での欲求は至って何でもなく売笑婦のところで放散させ、若い女とはそういう要求からでもなく、結婚しようというわけでもなく遊ぶという青年の型が生じている。そういう型を知識人のある人は何の疑問もなく、現代の賢い青年と呼んでいるのである。
同じような型で、賢い若い女といわれる人々がある。恋愛
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