なもの、人生に対して受動的な純潔、無邪気に満ちている美を美として認めている。漱石が、自分の恋愛に対して自主的であり、捨身である女を描くことができたのは、きわめて幻想的なヨーロッパの伝説を主とした「幻の盾」や「薤露行」やの中の女性だけであったことも興味ふかい。漱石は、彼が生きた時代と自身の閲歴によって、日本の知識人の日常生活の桎梏となっている封建的なものに、最も切り込んだ懐疑を示した作家であった。けれども、一面では、自分の闘おうとしているものに妥協せざるを得ない歴史の遺産が彼の心の中にあって生きていた。
 当時、まだ若かった平塚らいてう氏と森田草平氏とが、ダヌンツィオの影響で、恋愛は死を超えるものか、死が恋愛を負かすものであるか、という、今日から見ると稚げとも思える一つの観念的な試みのために伊香保の雪の山中に行ったりした事件に対し、漱石は、どちらかというと、先輩、指導者としての責任感という面からの感情で見ていることも、興味がある。
 平塚らいてう氏たちによってされた青鞜社の運動は、沢山の幼稚さやディレッタンティズムをもっていたにしろ、この社会へ女というものの存在を主張しようとする欲望の爆発として、歴史的なものであった。原始の女性は太陽であった。婦人の自由は社会生活の全面に確保されなければならないという主張であったけれども、当時の社会、経済生活は婦人にその主張の土台となる経済力を与えていなかった。いわば親がかりで気焔をあげているところがあった。母権時代は、現実の上には遠く遙かに過ぎ去っているのであったから、そういう主張をした婦人たち自身の恋愛や結婚にしろ、わずかに当事者たちの選択の自由、自主性、を示し得たに止った。そしてその女性たちの選択の自主性が、はたしてどれだけ人間的に社会的に高められ、進んだものであったかということについては、若い世代は、彼女たちの時代的経験に敬意を払うとともに、大なる疑問をのこしているのである。
 白樺派を主とする人道主義の人々は、出生した環境、階級の関係から、旧来の男尊女卑に反撥して、男と女との結合につよく人間性を求めた。殿様の切りすて御免風な女に対する関係を否定したのであった。恋愛において、結婚生活において、形式から縛られた貞潔ではなしに、自発的な自身の愛情に対する責任としての貞潔を、自身にも婦人にも求めた。人間として完成する伴侶としての男と女との結合ということがこの時代には眼目とされたのであった。
 確かに白樺派に属する若い人々は、まじめに、軽蔑など感ぜず女に対し、たとえば小間使いの女との間に生じた関係をも全心的に経験したであろう。女を一人の女として、階級のゆえんで蹂躙したりは決してしなかったであろうが、概して、これらの若い人道主義者たちの人間性とそれに対する善意とは抽象的なものであった。これらの人々は、どんなに自分は善意をもっており、誠実な心であっても、客観的にそれが現実の社会関係の内に行動されたときどういう作用を起すかということについては比較的知っていない。その点での社会性はいたくおくれている。これは直接恋愛についてではないが、たとえば武者小路実篤氏が今日の時代の農村の実状からとびはなれて、二宮尊徳をその誠意や精励、慧智の故にだけ、その美徳を抽象して賛歎しているような悲しき滑稽が出現するのである。
 欧州の大戦と婦人の職業戦線の拡大、労資の問題の擡頭、民衆の階級としての自覚、その解放のための運動は、日本でも恋愛と結婚との実際に大きい影響と変化とを与えた。ソヴェト連邦は新しい社会の機構によって、婦人の性を妻、母として保護しつつ、社会的にますます人間性の高められた複合単位として経済的、政治的、文化的に男女一対の内容を育てつつある事実は、世界の進歩的な男女に、男と女との恋愛や結婚の幸福の土台となっている社会事情についての理解やその歴史的発展に対する認識に一定の方向を与えた。マルクス主義の理解は、恋愛、結婚問題についての態度を従来の女性解放論的なもの、あるいは男女平等論風なものとはその本質において異ったものとした。抽象的に恋愛における人格の価値や自由をとりあげていた過去の態度に対して、新しい常識は、われわれの恋愛の根底において支配している経済力と個人との関係、そこから生じる恋愛の階級的質の相違、恋愛の自然な開花の可能と社会事情の進展との相互関係などについて、積極的に会得するようになったのであった。
 当時、おびただしい困難と歴史性からの制約と闘いながら、社会進歩のために献身した若いマルクス主義者たちの実践は、方向としては健全で遠大な目標を目ざしつつ、日常の錯雑した現実関係のうちで、実にさまざまの価値ある経験の蓄積をのこしている。どんな思想も抽象的に在ることはないのであるから、当時の最も進歩的なものも、日本
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