の美しさ、価値をうたった時代、現実の社会生活の中では決してそのような誰にものぞましい結合がざらにあった訳ではなかった。進歩的な若い文学者など(例えば透谷・藤村・独歩・啄木その他)が、新しい生活への翹望とその実現の一端として、自分たちの恋愛を主張し、封建的な男女の色恋の観念を破って、人間的な立場と文化の新生面の展開の立場で、男女の人格的結合からの恋愛と結婚とをいったのであった。
ヨーロッパで、自然主義の持った役割は非常に大きく、過去のヨーロッパ文化がその宗教的な伝統、騎士道の遺風、植民地政策の結果から生じた女性尊重と精神的愛の誇張から生まれている男女の性生活の偽善を打ち破る力があった。文芸思潮として日本へ入って来たこの自然主義は、当時の日本の社会事情、伝統的習俗の上へ蒔かれて、男女の結合とその生活の内容を観ることでは、ロマンティシズムの詩人たちが、心と姿とを審美的に輝やかしく描いたに反して、肉体的な面、いわゆる獣的な結びつきだけを拡大した。人間の恋愛をとりあげるのに、精神と肉体とをそういう素朴さで二元的なものに観、肉体の欲求を獣的と見たことも今日の私たちの心持から推せば何か奇怪であり、滑稽でもある。愛を表現しようとする心の望みが高まったとき、私たちはどうしてその熱情に応じて花咲き、匂う自身の肉体を否定したり、そこに獣を見たりしよう。人間の感能がこのように微妙に組織されており、機能がしかく精密であるということには、それにふさわしく複雑で、多彩で、弾力にとんだ精神の活動の可能が示されているのである。恋愛のように人間の総和的な力の発動を刺戟する場合、今日の私たちは自分たちの全人間が、その精神と肉体とが互に互のけじめもつけかねる渾然一体で活躍し、互が互の語りてとなって、愛する者に結合することを知っているのである。
ところで、日本の自然主義者たちは、そのように現実曝露として性的結合の獣的と見られた面をだけ抉出して芸術化したのであったが、このことの中にも、日本の社会において男が女を下に見る封建的なものは微妙に反映した。男女関係で、獣の牡牝にひとしい挙止を見た日本の自然主義の作家たちは、我知らずこれまでの日本の男らしい立場で、そのような牡である自身を人間的な悲愴さで眺め解剖しつつ、そういう牡である男に対手となる女が、はたして男が牡であると同量にあるいはその自発的な欲望において牝であるかどうかという点についての観察は深めなかった。当時の考えかたに従って男を牡と見きわめて、自身の牝を自覚し、強請する女は、日本の自然主義文学の中には描かれていない。男に岩野泡鳴はいたが、女にはそういう作家も出ず、自然主義の後期にそれが文学の上では日常茶飯の、やや瑣末主義的描写に陥った頃、リアリスティックな筆致で日常を描く一二の婦人作家(故水野仙子氏など)を出したにすぎない。このことにも、日本の社会の特徴が、男と女とにどう作用しているかということの面白い、具体的な現われが見られるのである。
漱石がこの明治四十年から大正初期にかけて、婦人の自我というものと男性の自我とが現実生活の中で行う猛烈な噛み合いを芸術の中に描いたのは注目に価する。牡に対する牝としてではなく、人間女として婦人がこの社会生活に関っている心理的な面を漱石はとらえ、このことでは、両性の関係のみかたが一歩進んだのであったが、漱石は、日本の結婚生活というものが一般に女の自然的性格の発展を害するものとして見ている。彼の思想は、当時の知識人の立場を代表して自我の発見に集注していたので、日本の女がたいてい結婚してわるくなるということの重点も、男の自我と女の自我との相剋に、原因をおかれた。そして、その相剋を積極的な主張的なものとして出す力も社会的習慣をも持たない女が内攻的になり、嘘をつくようになり、本心を披瀝しないものとなって、ただ男を社会経済生活に必要なものとだけ見てゆくようになる、その卑俗性がまた男に反射して摩擦を激しくする、その苦しい過程を描いたのであった。漱石が結婚しないうちの若い婦人に対して抱いていたどちらかというとロマンティックな、趣味的な気分と、結婚している女の良人に対する心理に辛辣な観察を向けている。その対照は細かくそれを眺めて行くと、明治初年に青年期を送ったこの大作家の心持に秘められているさまざまの時代的なものが実に面白く眺められるのである。漱石は、日本の社会にある結婚生活が、女を損い、そのことによって男の幸福もそこなわれていること、結婚生活の外面的な平和や円滑さに対する懐疑をつよくいいながら、それならば、と新しい生活の方向、結婚や恋愛の道をその作品の中で示し得なかったこともまた大いに注目すべき点であると思う。若い娘に対して、この作家はやっぱり従来の日本の家庭の雰囲気が生んだ内気なもの、淑やか
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