、中農の娘が巡査、小学校の教員、村役場の役員その他現金で月給をとる人のところへ嫁にゆきたがるのは、農村に現金が欠乏しているからと、語っておられる。それも確に一つの原因ではあろうが、今日、婦人雑誌の一つもよむ若い農村の娘は、耕作の激しい労働に対する嫌悪と文化の欠乏を痛感している。私の知っているある娘はこういった。「私は東京で嫁に行きたいと思っていたんですけれど。――田舎は煙ったくて、煙ったくて。」その娘の煙ったいというのは本当に煙のことで、田舎では毎朝毎夕炉で粗朶《そだ》をいぶし、煮たきをする、その煙が辛い。ガスのある東京で世帯をもちたいというのである。
 巡査にしろ、小学校教員にしろ、その妻は畑仕事が主な仕事ではなくて生計が営める。婦人雑誌をよむひまも、そこに出ている毛糸編物をやるひまもあり、最低ながら文化的なものを日常の生活の中にとり入れることができるであろうという若い女の希望も、この事実の裏にあると思う。
 ブルジョア文化というものは、何と奇体に不具であるだろう。たとえば近頃の婦人雑誌を開いて見れば、女がいつまでも若く美しくている方法から、すっきりとした着付法、恋愛百態、輝やかしい御幸福な新家庭の写真など、素朴な若い女の目をみはらせる写真と記事とのとなりに、最近とりわけて農村生活の幸福を再認識させようとして絵画化され、空想化された構図で、田舎の生活スナップや労働の姿などが撮られて並んでいる。農村の現実の中で明け暮れしている者の胸に、それらの農村写真の非真実性は自然映ってくるであろう。こんな綺麗ごとではないと思わずにいられまい。その感情で、都会の姿もここに見られるばかりではあるまいと鋭く思いいたる若い女は、数にしたらごく少数の怜悧な人々だけであろうと思う。田舎での女の暮しの楽しみ少なさばかりが際立って顧みられ、都ぶりに好奇心や空想を刺戟され、カフェーの女給の生活でさえ、何かひろい天地に向って開いている窓ででもあるかのように魅力をもって見られるのであると思う。
 処女会の訓練法は、はたして若い女の進歩性をのばしているであろうか。進歩的な農村の青年らが希望する女としての内容を与えているであろうか。このことには再び多くの疑問がある。封建的な家というものの重さ、近代的高利貸の重さ、昔ながらの少なからぬ風習の重さ。これらに立ち向って農村の進歩的な青年男女は、彼らの若い人生の
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