若き時代の道
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蘊蓄《うんちく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三七年五月〕
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人間として何か意味のある生活を生きぬきたいという極めて自然な望みと、現代の社会で私たちが生活して行かなければならないための生活の形というものとの間に、今日は実に深い矛盾がある。明治時代は、学校で学問をすることと、社会に出てからその蘊蓄《うんちく》を傾けて立派な人間的活動をすることとは、少くとも或る程度までは一致して考えることが出来ていた。現在はそうでない。いかに生きるべきかという問題の内容は非常に複雑であって、毎日は一応学生生活をやっていても、サラリーマン生活をやっていても、そういう謂わば外側の生活の順序だけ円滑に行っているだけでは、まだ本質的にこの問題が解決されきらない。そのことを、真面目な人々は日々深く感じているし、苦しんでもいるのである。
大学が学問の自主を失ったこと、インテリゲンツィアが左翼の退潮とともに生存の歴史的な方向や見とおしを失って無気力化したことなどが一つの原因で、今日、いかに生きるべきかという問題を、新しく提起していることも事実である。しかし、果して、そういう消極的な気分だけが、この究求の慾望を刺戟しているのであろうか。私は決してそうではないことを、若き時代の名誉のために確信をもって云いきれると思う。今日の社会の現実は、白面な常識を持った人間に、或る種の公憤を感じさせずにはいない様々の事実に満ちている。文化の上に現れている愚劣な地方主義にしろ、科学性の蹂躙にしろ、インテリゲンツィアの最も本質である知性の正当な発動に対する相剋が歴然としている。いかに生きるべきかが考え直されている根底には、生きることがないがどうしよう、というばかりではなく、人間的な理性と感情とから否定されるべき事物は分っている。だが、それをどういう実際のやりかたで表現して行くべきか、どこにその道があるか。知識人として肯定し建設すべきもののきっかけを矛盾だらけの社会関係にある自分の日常生活でどう掴み、どうものにしてゆくべきか、という熱心な苦しい摸索があるのである。
きのうの新聞に、二十五歳で大学の助教授となった青年の記事が出ていた。私はその写真を眺めながら、このひとは今日
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